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第19話 林檎


「……恥ずかしい話だから」


 その一言が落ちた瞬間、店内の雑音がふっと遠ざかった気がした。午後のママたちの笑い声。食器の触れ合う音。それら全部が、ガラス一枚隔てた別の世界の出来事みたいだった。


「あ、あの。その……」


 相澤くんは視線を泳がせ、唇を震わせている。

 俺は姿勢を正し、彼の目をじっと見つめて「待つ」姿勢を取った。


 思春期のプライドは、傷つけられたくないという恐怖の裏返しだ。ここで急かせば、彼は貝みたいに口を閉ざしてしまう。


 けれど、隣の美桜にはその間が耐えられなかったらしい。


「早く言ってよ!」


 美桜が声を荒らげ、テーブルを叩く。その拍子に水の入ったコップが跳ねた。俺の心臓も跳ねる。相澤くんもびくっと背筋を伸ばし、怯えた目で美桜を見た。


 俺はすかさず美桜の肩に手を添える。


「み、美桜。大丈夫だから。ちょっと落ち着いて、ね」


 美桜は口を尖らせて、不満げに鼻を鳴らした。


「……だって、じれったいし」


「分かってる。でも、待ってあげて」


 俺は美桜をなだめてから、もう一度相澤くんに向き直った。


「で、話してくれる? 相澤くん」


 相澤くんは俺の目を見て、まだ迷っている。こいつは信用できるのか、話しても笑わないか、値踏みしている目だ。


「……ここだけの話に、してくれる?」


 念を押す声が震えている。

 俺は深く頷いた。


「……『グローバルリンク』っていうアプリがあるんだけどさ。外国人と話せるやつ」


「外国人と?」


 美桜が眉をひそめる。

 俺もそこで少し身構えた。外国人交流をうたうアプリ自体は珍しくない。けれど、中学生がそこに踏み込んでいる時点で、嫌な予感しかしない。


「え、相澤くん、外国語話せるの?」

「いや、アプリの中で通話すると、リアルタイムで翻訳が出るんだよ」


 相澤くんの説明によると、『グローバルリンク』は世界中の人とメッセージや通話ができる交流アプリらしい。翻訳機能がついていて、言葉ができなくても外国の人と繋がれるのが売りだという。


「楽しそうだったから、そのアプリで遊んでたんだ」


 相澤くんがぽつぽつと語り出す。


「同い年のクリスティンっていう子と出会ったんだ。フィリピンの学生なんだって」

「出会ったのは一週間くらい前。夜、毎日通話して遊んでた。相手は英語なんだけど、すぐ翻訳されるからさ。なんか、すげえって思って」


 そこで一度、相澤くんは言葉を止めた。

 恥ずかしさと未練が、まだ喉に引っかかっている顔だった。


「……で、話しやすかったんだよ。俺のこと、ずっと褒めてくれてさ」

「かっこいいとか、優しいとか、そういうの」

「学校じゃそんなこと言われないし……なんか、自分だけ特別みたいな感じがして」


 美桜が露骨に顔をしかめる。


「その時点で怪しいでしょ」

「分かってるよ! 今は分かってる!」


 相澤くんが反射みたいに言い返す。

 でもすぐに肩を落として、視線をテーブルに落とした。


 俺の脳内で、警報が鳴り始めていた。

 これは恐らく、承認欲求や恋愛感情につけ込むSNS系の詐欺だ。最初は本当に優しい。優しすぎるくらいだ。まるでドラマの主人公になったみたいな気分にさせて、現実の退屈や劣等感を忘れさせる。


 特に、誰かに「選ばれたい」と思っている相手には、よく効く。


「そしたら、悩みがあるって言うから聞いたんだ」


 秘密を共有させて、味方だと思わせる。

 その流れも、典型的だ。


「“自分に自信がないから、私の裸を見てほしい”って言うんだ」

「はぁ?」


 美桜が堪らず声を上げた。眉間に深い皺が寄る。


「何それ。そんなやついるわけないでしょ。気持ち悪い」

「分かってる! もう分かってるよ。俺がばかだったんだ……」


 相澤くんは視線を落とし、頭を抱えた。

 窓の外の夕日が差し込んでいるのに、彼の周りだけ影が濃い。


 俺は一度だけ呼吸を整えてから、核心へ踏み込む。


「……それで、どうしたの?」


 相澤くんの喉が、ごくっと鳴った。


「そしたら……“やっぱり、自分だけ見せるのは恥ずかしい”って……」


 テーブルの上で、彼の指先が意味もなく動いている。

 逃げ出したい指先を、必死に理性で止めているみたいだった。


「だから……“あなたの裸も送って”って言われたんだ……」


 美桜が、信じられないものを見る顔になる。


「ほんと馬鹿ね。そんなので自分の裸の写真送る人いるわけないでしょ」


 沈黙が落ちた。重苦しく、粘りつくような沈黙だ。


「まさか、送ったの?」


 美桜は容赦なく追及する。

 俺は慎重に外堀を埋めていくタイプだけど、美桜はハンマーで正面突破するタイプだ。相澤くんには、今はそれが効いているらしい。


「……送った」


 消え入りそうな、蚊の鳴くような声だった。


「はぁ? 送って何がしたかったの?」


 相澤くんは顔を上げない。けれど、そのまま逃げることもできなくなったらしい。耳まで真っ赤なまま、絞り出すように言った。


「だ、だって……毎日話してたし……」

「向こうが本当に俺のこと好きなのかもって、ちょっと思ったし……」

「俺だけ見せろって言われて、断ったらダサいっていうか、信用されてないって思われそうで……」

「なんか……今思えば最悪だけど、その時は、断れなかったんだよ……」


 そこまで言って、また黙る。


 俺には分かる。相澤くんは、ごく普通の、中学一年生の男子だ。深夜の通話、異国の少女、二人だけの秘密。「見せてくれる」という誘惑。好奇心と性的な興味と、「特別扱いされたい」という気持ちが、抑えきれなかったんだろう。


 アプリの中なら安全だと思ったのかもしれない。

 でも、データになった瞬間、それはもう本人の手を離れる。保存も複製も拡散も、一瞬だ。からかいじゃ済まない。凶器になる。


「で……送ったら、どうなったの?」


 俺が促すと、相澤くんは目を閉じて、吐き出すように言った。


「『あなたの汚い体を保存した』って」

「『言うこと聞かないなら、ばらまく』って……」


 美桜の顔から血の気が引いた。怒りより先に、ぞっとした恐怖が浮かぶ。


「……何を、要求されたの」


 俺が聞くと、相澤くんは耳まで真っ赤にして、でも逃げずに言った。


「アップルカード」

「明日の十時までに、十万円分。番号を送れって。送ったら画像を消すって」


 店内の音が戻ってきたはずなのに、俺の耳には何も入ってこない。思考だけが冷たく回る。


 アップルカード。

 コンビニで買えるプリペイドカードだ。削った番号を送るだけで、ネット上の金として回収される。写真でも、メッセージでも、口頭でもいい。一度渡したら終わりだ。いや、終わらない。こういうのは、一回払ったやつを「払うやつ」認定して、次も、その次も要求してくる。


 しかも、番号だけなら回収役が直接来ない。足がつきにくい。

 つまり、相手は慣れている。最初から、そういう回収の仕方を知っている。


「それ、絶対に買っちゃダメ」


 俺の声は、自分でも驚くくらい低かった。


「一回でも送ったら終わりだよ。次々要求される。約束なんて守られない」

「画像を消す保証なんてどこにもない」

「むしろ、“まだ持ってる”って言って、ずっと脅される可能性のほうが高い」


 美桜もすぐに続いた。


「そうだよ! しかも十万って何!? 中学生にそんな金額要求するとか、まともじゃない!」

「朱音に金借りようとするとか、ほんと最低!」


 相澤くんは両手で頭を抱えた。髪をぐしゃぐしゃにして、呼吸だけが荒くなる。


「……そうだよ、騙されたんだよ! でも……でもっ! 買わないと、俺の人生終わるんだよ!」


 椅子がきゅっと鳴る。


「ばらまかれたら、俺、一生笑われるんだよ!」

「クラスでも、学校でも、ずっと言われる!」

「きもいとか、ばかとか、裸送ったやつとか、絶対そうなるじゃん!」


 その叫びは、怒鳴り声というより悲鳴に近かった。


 俺は言葉を急がないように、噛み砕いて伝える。


「分かる。怖いよね。でも、払っても終わらない」

「今いちばんダメなのは、“これで終わるかも”って期待して送ること」


 相澤くんは頭を抱えたまま首を振る。否定じゃない。抵抗だ。現実を認めたくない動き。


「でも……一回で終わるかもしれないだろ! 何も知らないくせに!」


 刺すような声が飛んでくる。焦りが怒りに変わって、俺に突き刺さる。


 隣で、美桜が机に手を置いた。指先が小さく震えている。


「何その態度! 朱音を巻き込んで、金まで借りようとしてるくせに!」


 空気が硬くなる。

 このままだと、美桜の怒りが正しいまま相澤くんを追い詰める。追い詰めたら、口を閉ざすかもしれない。そしたら、明日の十時に向かって突っ走る。


 俺は一度、喉の奥の焦りを飲み込んだ。

 そして、そっと身を乗り出す。


 相澤くんが頭を抱え込んでいる。その手首に、軽く触れる。止めるためじゃない。戻ってこい、って合図のつもりで。


「大丈夫」


 声を柔らかくする。


「私、力になれるかもしれない。だから、ちゃんと教えて」


 相澤くんは顔を上げた。

 少しだけ笑って見せた。心を開かせるための笑い。打算もある笑い。それでも今は、閉じられるよりずっとマシだ。


 その直後。


 隣の美桜が、俺の手首を掴んで引いた。相澤くんの手から、俺の手を強引に引き剥がす。


 口が尖っている。目が怒っている。

 怒ってる時の美桜だ。


 相澤くんは俺をまっすぐ見た。目が潤んでいるのに、意地だけが張りついている。


「……誰にも言わないでほしい。……恥ずかしい話だから」


 その一言が落ちた瞬間、店内の雑音がまた少し遠くなった。


 これは、ただの中学生の失敗じゃない。

 相澤くん一人の恥で終わらせたら駄目な種類の話だ。


 俺は息を整え、次の言葉を待った。


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