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第18話 相談


「田中朱音さん、ちょっと話があるんだ」


 背中から声が刺さった。振り向くと、そこに相澤亨が立っていた。


 顔は赤い。耳まで赤い。なのに目が潤んでいて、さっきまでの“クラスの中心”みたいな圧がない。落ち着かない呼吸で、胸が上下しているのが分かる。


 隣で繋いでいる美桜の手が、ぎゅっと強く握られた。その力が、俺を守るみたいで、同時に相澤を警戒してるみたいで、少し痛い。


「……なんの用ですか?」


 先に声を出したのは美桜だった。いつもより低い。ぴりっとした音が混じっている。


「お前じゃない。田中さんに用があるんだ」


 相澤は美桜を見ないようにして、俺だけを見る。その言い方が、余計に目立つ。周りの視線が一瞬集まるのが分かった。


「ここで用件を言って」


 美桜が一歩前に出る。俺と相澤の間に割って入る形だ。


「なんでここで言わなきゃいけないんだよ」


 相澤が苛立ったように言い返す。でも、声が震えている。


 ここは校門の近く。まだ中学校の敷地内だ。帰宅する生徒、部活に向かう生徒が行き交っていて、ちらちらとこっちを見ていく。このまま続けたら変な噂になるかもしれない。


 俺は息を吸って、声のトーンを落ち着かせた。


「私は誰かに言うつもりはないよ。でも、続けるなら止めるよ」


 言い切った瞬間、相澤の目が見開かれた。美桜も俺の顔を覗き込んで、驚いたみたいに瞬きする。


 相澤は口を開けて、閉じて、もう一度開いた。


「……じゃ、じゃあ助けてくれよ。だから話したかったんだ」


 声が裏返りそうになっていた。


 その顔は、泣き出しそうで。怖がっている子どもの顔だった。


 俺はすぐに頷かなかった。

 さっきまで他人の財布に手を入れていた相手だ。見つかったから困っているだけかもしれない。ここでうっかり巻き込まれたら、厄介になる。


 でも、このまま校門前で立たせておくのも違う。周りの目もあるし、相澤は今にも変な方向へ走りそうな顔をしている。


「……場所、変える?」


 俺が小さく言うと、美桜がすぐ横から被せた。


「人気のない場所はダメ。絶対ダメ」


 即答だった。


「学校の近くで、人がいて、店員さんがいるところならいい」


 その言い方に、美桜の本気の警戒が滲んでいた。

 相澤は少しむっとした顔をしたけど、反論はしなかった。


 それで、俺たちは学校の近くにあるファミレスへ移動した。


 店の名前は「馬車川」。席は半個室で、仕切りの向こうから午後のお茶をしている女性たちの小さな笑い声が聞こえる。カトラリーの触れ合う音と、ドリンクバーの氷が落ちる音が、やけに現実的だった。


 人目はある。店員もいる。何かあってもすぐ声が出せる。

 そう自分に言い聞かせて、俺は席に座った。


 俺と美桜は、とりあえずココアを頼んで隣同士に座った。

 相澤は向かいに座り、何も頼まず、水だけを飲んでいる。コップを持つ指が落ち着かず、カタカタと氷の音がする。


「なんでここなんだよ。公園でいいじゃん」


 相澤がぶつぶつ言う。


「公園はダメ。まだ寒いし、朱音が風邪ひくでしょ。あと、人のいない場所で話すのは嫌」


 美桜が即答する。正論すぎて、相澤がぐっと黙る。


「……てかさ。話聞くんだから、お茶代くらい出しなよ」


「……うっ」


 相澤が、明らかにやられたみたいな顔をした。

 美桜、こういう時は容赦ない。


「で、話って何?」


 俺が間に入ると、相澤は目を泳がせたまま口を開く。


「実は……お願いがあるんだ。その……」


 両手の指をもじもじさせて、言葉を探している。爪をいじって、テーブルの縁を触って、落ち着かない。


「早く言って」


 たまらず美桜が言った。


「お金……貸してほしいんだ!」


「……へ?」


 俺と美桜は、思わず顔を見合わせた。

 一瞬、ココアの甘い匂いだけが浮いて、空気が止まる。


「お金が欲しくて、人の財布探してたの?」


 美桜が信じられないって顔で俺を見る。相澤の顔が、さらに赤くなる。


 俺は咳払いして、挟む。


「……美桜には、ちゃんと言わないと話が通らないから」


 相澤は諦めたみたいに肩を落とした。


「……そうだよ。仕方なかったんだ。あとで返すつもりだった」


 返すつもりだった。

 万引きするやつも、横領するやつも、だいたい同じことを言う。


 でも今は問い詰めるより先に、状況を掴まないといけない。


「……いくら必要なの?」


 俺は施設の人間だ。大金なんてない。

 でも金額次第で、何か他の手があるかもしれない。それで窃盗なんて二度としなくなるなら、と思ってしまう自分もいる。


 相澤はすぐには答えなかった。

 水を一口飲んで、唇を舐めて、視線を泳がせる。


「……ちょっと」


「ちょっとって、いくら」


「……五万」


 相澤が言った瞬間、胃の奥がひやっとした。


「なんとか全部で十万……かき集めなきゃいけないんだ。いや、学校から盗んだとかじゃない。マジで。でも、あと五万ないとヤバいんだよ……」


 声が震えた。目の端に涙が溜まって、落ちそうで落ちない。


 五万。あと五万。

 総額は十万。中学生が口にする金額じゃない。


「そんな大金、あるわけないでしょ!」


 美桜が勢いよく言った。相澤の逃げ道を塞ぐみたいに、言葉が鋭い。


「そんな大金、何に使うの!?」


 相澤の肩がびくっと揺れた。


「……う、うぅ……なんで、こんなことに……」


 とうとう泣き始めた。テーブルに落ちた涙を、慌てて手の甲で拭う。拭っても拭っても止まらない。


 いじめ。先輩。脅し。

 頭の中に可能性が浮かぶ。どれにしても、まともな請求じゃないはずだ。相澤がいじめられる側には見えないし、単なるカツアゲにしては額が大きすぎる。


 俺は息を整えて、もう一度だけ静かに聞いた。


「……相澤くん。何があったの?」


「うぅ、本当最悪なんだよ。時間もないんだ。少しでいいから貸してくれ!」


 相澤の声は掠れていた。焦りが、そのまま形になって顔に貼りついている。机の下で膝が小刻みに揺れているのが見えて、俺の胸の奥がざわついた。


「……なんで私に頼むの? ほかにも友達いるでしょ」


 言いながら、俺は自分の声をなるべく平らに保った。感情で押したら、相澤はもっと固くなる気がしたから。


 相澤は口を開けて、すぐ閉じた。言えないことを飲み込むみたいに唇を噛んで、やっと吐き出す。


「男友達からは……もう、だいたい借りた。みんなから借りて、やっと五万なんだ。もう頼めるやつ、いないんだよ」


 胸の奥が、ひやっと沈んだ。

 もう周りを巻き込んでる。友達関係を食い潰してる。


 それでも十万は異常だ。子どもの見栄とかノリじゃない。もっと、じっとりした大人の匂いがする。


「……そのお金で、何を買うの?」


 俺がそう聞いた瞬間、相澤の動きが止まった。

 水のグラスを掴んだまま、指だけが白くなるほど力が入る。


「……アップルカード。明日の十時までに買わないといけないんだ」


 背筋に、嫌な汗がつうっと流れた。胃の底が、冷たい水に沈められるみたいに重くなる。


 美桜が、即座に顔をしかめた。声音が鋭い。


「はぁ? アップルカードって……何に使うの、それ。課金とか?」


 アップルカード。

 コンビニで買えるプリペイドカードだ。削った番号を入力すればネット上の“金”になる。ゲームにも、買い物にも使える。


 そして、番号さえ渡せば終わりだ。写真でも、メッセージでも、口頭でもいい。伝えただけで金だけが取られていく。足がつきにくい。


 最近よくあるのは、

 有料サイトの未納だとか、アカウントの復旧だとか、そういうもっともらしい理由をつけて買わせるやり方。

 一度応じたら終わりじゃない。次も、その次も要求される。


 だから、これがよく出てくるのは――ネット詐欺だ。


 俺は息を吸った。心臓が嫌な速さで打っている。


「……それ、騙されてる。買わないほうがいい」


 自分でも驚くくらい、声が低くなった。


 美桜が俺を見る。相澤も目を見開いて俺を見る。


 でも次の瞬間、相澤の顔は悔しそうに歪んで、怒りとも涙ともつかないものが混ざった。


「……そうだよ、騙されたんだよ! でも……でもっ! 買わないと、俺の人生終わるんだよ!」


 椅子がきゅっと鳴る。相澤は両手で頭を抱えた。髪をぐしゃぐしゃにして、呼吸だけが荒くなる。


 俺は言葉を急がないように、噛み砕いて伝える。


「そういうのって、一回でも送ったら終わりだよ。次々要求される。終わらない。だから、送っちゃダメ」


 相澤は頭を抱えたまま首を振る。否定じゃない。抵抗だ。現実を認めたくない動き。


「でも……一回で終わるかもしれないだろ! 何も知らないくせに!」


 刺すような声が飛んでくる。焦りが怒りに変わって、俺に突き刺さる。


 隣で、美桜が机に手を置いた。指先が小さく震えている。


「何その態度! 朱音を巻き込んで、金まで借りようとしてるくせに!」


 空気が硬くなる。

 このままだと、美桜の怒りが正しいまま相澤を追い詰める。追い詰めたら、口を閉ざすかもしれない。そしたら、明日の十時に向かって突っ走る。


 俺は一度、喉の奥の焦りを飲み込んだ。

 そして、そっと身を乗り出す。


 相澤が頭を抱え込んでいる。その手首に、軽く触れる。止めるためじゃない。戻ってこい、って合図のつもりで。


「大丈夫」


 声を柔らかくする。


「私、力になれるかもしれない。だから、ちゃんと教えて」


 相澤は顔を上げた。

 少しだけ笑って見せた。心を開かせるための笑い。打算もある笑い。それでも今は、閉じられるよりずっとマシだ。


 その直後。


 隣の美桜が、俺の手首を掴んで引いた。相澤の手から、俺の手を強引に引き剥がす。


 口が尖っている。目が怒っている。

 怒ってる時の美桜だ。


 相澤は俺をまっすぐ見た。目が潤んでいるのに、意地だけが張りついている。


「……誰にも言わないでほしい。……恥ずかしい話だから」


 その一言が落ちた瞬間、店内の雑音が少し遠くなった。午後の女性たちの笑い声。食器の触れ合う音。全部、別の世界の音みたいに聞こえる。


 相澤の“恥ずかしい話”が、始まる。


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