第17話 鞄
中学生になって、二週間ほど経った。
今日は体育の時間があった。校庭での体力測定だ。
春の空は青いのに、地面はまだ少し冷たくて、土の匂いが湿っている。運動靴が砂を踏む音、遠くで笑っている声、ホイッスルの乾いた音が混ざって、校庭全体がざわざわしていた。
俺は「無理をしてはいけない」ということで、先生の補助だった。
走らない。跳ばない。息を上げない。
頭では分かっているのに、みんなが駆け出すのを見ると、胸の奥がちょっとだけ疼く。
先生がタイムを読み上げる。
俺はその数字を、クリップボードに挟んだ記録用紙へひたすら書き込んでいく。
「次、相澤! 位置つけー!」
「はいはい、余裕っす!」
相澤亨。
声が大きくて、返事が軽い。クラスの男子の中心みたいなやつだ。運動ができて、明るくて、悪ふざけもするけど、みんなが笑ってしまうタイプ。
100メートル走が終わり、休憩になった。
水分を取りに行くやつ、芝生に座り込むやつ、トイレに行くと先生に声をかけるやつ。校庭の空気が一気にほどける。
「あっ、田中。教室からボールペン持ってきてくれるか?」
「分かりました」
俺は一人で、ゆっくり教室に戻った。
校舎の中は外よりひんやりして、冷気が肌に貼りつく。廊下には部活勧誘のポスターがまだ貼ってあって、紙の角が風でかすかに揺れていた。
教室のドアを開ける。
空っぽの教室は、体育中の熱気が嘘みたいに静かだった。蛍光灯の白い唸りと、窓から入る風の微かな音だけ。
先生の机のほうへ歩きかけた、そのとき。
目の端に、人影が入った。
そこにいたのは、相澤亨だった。
休憩のどさくさで校舎に戻ってきたのか、息を潜めるように立っている。
しかも相澤くんが立っていた場所は、別の男子の机の前だった。
鞄が開いている。
相澤くんの手が、その中に入っていた。
相澤くんは固まって、口をあんぐり開けたまま俺を見た。
時間が一拍、止まったみたいだった。
俺も声が出ない。
何してるんだろう。
視線を外せないまま数秒。
相澤くんは、ようやく血が巡ったみたいに動き出した。
「……まだ盗ってねぇからな。盗ってねぇから」
焦った声。
言い訳が先に出たみたいな声だった。
手はまだ鞄の中にある。
指先は財布の端を掴んでいて、関節が妙に白い。戻そうとしているのに動きが雑で、焦りが隠せていなかった。
相澤くんは財布を慌てて元に戻すみたいに押し込み、鞄を元の形に整えた。
ファスナーを閉める音が、やけに大きい。
それから、俺を睨んだ。
睨むというより、必死で圧をかけてくる目だった。
でも、口の端が少し引きつっている。脅している側の顔じゃない。見つかったことに怯えている顔だ。
「誰にも言うなよ」
低い声。
相澤くんはそれだけ言って、教室を出ていった。
ドアが閉まる音が、がちゃん、と響いた。
相澤くんは、他人の金を盗もうとしていた。
胸の奥が冷える。
怒りというより、嫌な現実を見た感じだった。
こんなこと、身近にあるんだ、という生々しい感触。
先生に言うべきか。
今すぐ追いかけて問い詰めるべきか。
頭の中で、昔の癖みたいな思考が動き出す。
でも、今回のこれは未遂だ。
見つかって止まった。
ここで大ごとにして、本人がもう二度としないなら、それが一番いいのかもしれない。
いや、本当にそうか。
今回だけで終わらなかったらどうする。
見逃したことになるんじゃないか。
迷いが喉の奥をざらつかせる。
それでも、今この場で先生に言う気にはなれなかった。
まだ、相澤くんのあの目が頭に残っている。脅しているくせに、怯えていた目だ。
俺はボールペンを取って、校庭に戻った。
先生に渡して、また記録係に戻る。
紙の上の数字は増えるのに、頭の中にはさっきの教室の光景がずっと残っていた。
相澤くんを見る。
相澤くんも、こっちを見る。
でも目が合うと、すぐに逸らす。
また数秒して、気になったようにこっちを見る。
そして、俺がまだ見ていると分かると、また逸らす。
告げ口するなよ、ってことだ。
でも、それ以上に、自分がどう見られているのか確かめ続けている感じだった。
体育が終わってからも、昼休みも、授業中も。
目が合うたびに、相澤くんはすぐ逸らした。
そのたびに、俺の胸の奥がじわっと重くなる。
黙っているのが正しいのか、まだ分からない。
休み時間、前の席の愛ちゃんがくるっと振り向いた。
髪が揺れて、机の上に影が落ちる。
「ねね、朱音ちゃん。相澤くんにめっちゃ見られてない?」
「……そ、そうかな?」
「朱音ちゃん可愛いから、好きなのかもよ?」
愛ちゃんが妙に楽しそうで、口元がにやけている。
こっちは笑えないのに。
「ち、違うと思うよ」
だって相澤くんが見ているのは、俺が告げ口しないか見張っているだけだ。
俺は相澤くんをちらっと見た。
また、こっちを見ている。
だったら、ここで一つだけ伝えておきたい。
俺はわざと愛ちゃんに顔を寄せた。
愛ちゃんも乗り気で、ぐっと耳を寄せてくる。
近づいた瞬間、愛ちゃんの髪から柑橘みたいな甘い匂いがふわっとした。
胸の奥が変なところで跳ねる。恥ずかしくて身を引きそうになるのに、今は動けない。
俺はそのまま、相澤くんに見えるように、でも意味のない声だけを出した。
「……ごにょごにょごにょ」
喋る気なんてない。
誰かに言うつもりもない。
それを、遠回しに伝えたかった。
愛ちゃんが一拍置いて、俺を見て笑う。
「なにそれー?」
その瞬間。
ガタッ、と椅子が鳴った。
机が擦れる音も一緒にして、空気が一気に固くなる。
相澤くんが立ち上がって、まっすぐこっちに向かってくる。
愛ちゃんもびくっとして、相澤くんを見る。
相澤くんは俺の真横まで来て、怒った顔で言った。
「な、何話してるんだよ!」
近い。
男子の体温と圧が、目の前にある。
俺は反射で肩が強張る。
「ど、どうしたの? 相澤くん」
愛ちゃんは本当に何も知らない顔をしている。
それが逆に不思議だったのか、相澤くんの勢いが少しだけ落ちた。
俺は落ち着いた声を作って言う。
「何も話してないよ。安心して」
相澤くんは、じっと俺を見た。
その目の奥に、焦りが見える。
脅しているつもりなのに、怯えている目。
相澤くんは何も言わず、踵を返して自分の席へ戻っていった。
相当、警戒している。
でも今ので、俺が喋る気はないってことが伝わってくれたらいい。
放課後。帰ろうとした。
部活は来月からだから、今は何もせずに帰宅だ。運動部は体験入部で、もう活動しているところもある。
教室を出ると、美桜が待っていた。
廊下の光の中で、黒いショートカットがすぐ分かる。
美桜は俺の手を取って、当たり前みたいに繋いだ。
その瞬間、胸の奥のざわつきが少しだけ落ちる。
二人で校舎を出て歩き出した、そのとき。
「田中朱音さん。ちょっと話があるんだ」
背中に声が刺さる。
振り向くと、相澤くんだった。
顔が真っ赤で、目が少し潤んでいる。
怒ってる赤じゃない。恥と焦りが混ざった赤だ。
隣で、美桜の握る手に力が入った。
そのまま一歩だけ、俺の前に出る気配がした。




