第15話 交換
その後は、オリエンテーションと入学式だった。
教室の机の上に、配られたプリントがどさっと積まれる。
校則、時間割、部活紹介、保健室の案内。紙の角が揃っていく乾いた音が、やけに現実的だった。
窓の外は春の光で白い。まだ暖かいはずなのに、教室の空気は少し冷えている。
新しい机のニスの匂いと、誰かの柔軟剤の匂いが混ざって、鼻の奥がくすぐったい。
担任が黒板の前で、手元の名簿をぱらぱらめくる。
「えー、今配ったやつは大事だから、なくすなよー。あと、名前。今日中に全部書いとけ」
周りでは筆箱の蓋が開く音が連鎖していく。
「プリント多すぎじゃない?」
「中学、ほんとそれって感じ」
笑い声が小さく跳ねて、教室の空気が少しずつ“自分の場所”になっていく。
俺もシャーペンを持った。
田中朱音、と書く。
たったそれだけなのに、指先が少し固くなる。
そのとき、前の席の女子が椅子ごとくるっと振り向いた。
目が合った瞬間、にこっと笑う。距離が近い。
「ね、田中さんだよね? 小学校どこ? うち上頭南なんだけど」
「あ……えっと……」
急なコミュニケーションに口がもつれる。
「……上頭小」
短く答えると、その子はぱっと顔を明るくした。
「うわ、近っ。じゃあさ、今日さ、入学式の前に写真撮らない? みんなで撮ろってなってて」
隣の子もひょいっと顔を出す。
「え、撮ろ撮ろ。田中さんも入ってよ」
手にはスマホ。画面が明るく光っている。
少し迷った。
輪の中に入ったら、ちゃんと笑えるだろうか。変に浮いたりしないだろうか。考えているうちに、一拍だけ返事が遅れる。
「……うん。撮る」
「やったー」
声が揃って、軽く笑い合う。
「てか田中さん、背ちっちゃくて可愛くない? 制服ちょっとぶかぶかじゃん」
可愛い。
その言葉が刺さるより先に、どう反応していいか分からなくなる。
俺は口角を上げようとして、うまくいかなくて、でも否定もしないまま頷いた。
肩の力が、ほんの少し抜けた。
チャイムが鳴る。
休み時間になった瞬間、椅子が引かれる音がいっせいに鳴った。
教室がいきなり動き出す。笑い声、机を叩く音、誰かが呼ぶ声。空気が一段明るくなる。
俺は席を立つタイミングを失って、プリントを揃えるふりをしていた。
紙の端を何度も指で揃えて、目線だけが落ち着かない。
そのとき。
廊下側の窓の向こうに、黒いショートカットが見えた。
すれ違う制服の波の中で、美桜の輪郭だけがはっきり浮く。
美桜。
二組の前を素通りするみたいに歩いて、でも一瞬だけ立ち止まる。
こちらを見て、目だけで大丈夫と聞いてくる。
俺は小さく頷いた。
美桜は安心したみたいに息を吐いて、何事もなかった顔でまた歩き出す。
けれど、歩き出す直前、ほんの少しだけ表情が固かった気がした。
「……今の子、誰?」
さっきの子が、興味深そうに小声で聞いてきた。
「……隣のクラス。小学校から一緒の友達」
「へえー。ガチ仲良しじゃん。めっちゃ見てたよ?」
からかう感じじゃない。
でも、言われると妙にくすぐったい。
「仲いいんだね」
その言葉が、ほんの少しだけ嬉しくて、ほんの少しだけ怖かった。
次のチャイムが鳴って、また席に戻る。
先生の声。ノートを開く音。黒板を写すシャッ、シャッという鉛筆の音。
それでも、休み時間が来るたびに、俺は少しだけ廊下を気にしてしまう。
二時間目のあとの休みも。
三時間目のあとの休みも。
美桜は、毎回ちゃんと来た。
覗き込むでも、呼ぶでもない。
廊下を通るついでみたいに、ほんの一瞬目を合わせるだけ。
別々になったのに、完全に一人じゃない。
その事実が、息をしやすくしてくれる。
入学式の整列で、体育館へ向かう。
廊下は制服の布が擦れる音と、靴のゴムが床をこする音でざわざわしていた。
窓から入る光は明るいのに、体育館に近づくほど空気がひんやりしてくる。
「ね、田中さん、歩くの速い?」
隣に並んだ女子が、ひょいっと俺の顔を覗く。
「……速くない。大丈夫」
「じゃ、うちもゆっくりでいーや。今走ったら疲れるし」
勝手に歩調を合わせてくれる。
その自然さが、ありがたかった。
体育館は、春なのに少し冷える。
椅子を引く音が床に響いて、どこかで誰かがくしゃみをして、笑い声が小さく漏れる。
校長先生、来賓、在校生代表。
いつも通りの言葉が並ぶ。
拍手の音が天井に跳ね返って、乾いて響いた。
式が終わって退場の列が動き出した。
「田中さん、さっき言ってた写真、廊下で撮ろー!」
背中を軽く叩かれる。遠慮しすぎない距離。
「うん」
スマホを構える子たちの輪の中で、俺は端っこに立つ。
「え、端すぎ。もっと寄って寄って」
笑いながら引っ張られて、肩がぶつかるくらい近づく。
人の体温と、制服の布の感触。それだけで、なんだか普通に混ざれた気がした。
ふわりとした甘い匂いがする。
「はい、いくよー。チーズ!」
シャッター音。
その一枚の中では、俺もただの新入生になれた気がした。
そのとき。
廊下の向こうで人の流れが交差する。
美桜だ。
目が合う。
美桜の表情が、ほんの少しだけほどける。
唇が動く。
「……あとで」
声は聞こえない。けど分かる。
俺は小さく頷いて、視線だけで返事をした。
写真の輪の中に戻って、もう一度笑う。
今度はさっきより、少しだけ自然に。
離れても大丈夫、なんてまだ言い切れない。
でも、休み時間のたびに美桜が来る。
それだけで、今日は十分だった。
そのあとも、俺は前の席の子と話していた。
ロングヘアで、頬が少し赤い。笑うと目が細くなるタイプだ。
元気で、言葉が止まらない。質問が次から次へ飛んでくる。
「ねえねえ、朱音ちゃんってさ、インスタやってる? 連絡先交換しよ」
どきっとした。
「ご、ごめん。スマホは持ってるんだけど……SNSダメって言われてて、使えないの」
「え、まじ? それきつくない? じゃあ電話だけでもいこ。LINEも無理?」
「……うん。LINEも無理なんだ。ごめんね」
「そっかー。じゃあ電話! はい、入れて」
勢いに押されて、番号を交換する。
中学生になって初めての“連絡先交換”だった。
画面の名前欄には、『鈴木 愛』。
その文字を見た瞬間、ほんの少しだけ現実感が変わった。
教室の中の誰かが、ただの“同級生”じゃなくなる。今日の会話が、今日だけで終わらないものになる。
「愛ちゃん、ありがとう」
「こちらこそー。よろしくねー」
その言い方があまりに当たり前で、胸の奥が少しだけ温まった。
「あー、いいな私も」
隣の子も乗っかってきて、結局その子とも番号を交換した。
放課後。
昇降口を出たところで、美桜と合流する。
靴箱の前は人が多くて、笑い声と金具の音が混ざっていた。
いつもなら安心するはずなのに、美桜は少し不機嫌そうだった。
歩くスピードが、ちょっと速い。
「美桜、もうちょっと……遅く……」
美桜ははっとして、振り向いた。
「ご、ごめん……」
それだけ言って、俯いてしまう。
並んで歩き直す。
制服の裾が擦れて、春の風が頬を撫でた。
「……ねぇ、朱音。今日さ」
美桜が小さく言う。
「朱音、クラスでめっちゃ人気だったね」
人気。
その言い方に、胸がちくっとする。
「……そんなことないよ」
「楽しそうにしてた」
言った瞬間、美桜の手の力が少し強くなった。
その声は拗ねているのに、どこか怯えてもいた。
「私、心配だった」
「朱音、無理するじゃん。頑張りすぎるじゃん」
握られている手が、熱い。
「うん……でも大丈夫だよ。みんな、気にかけてくれてるし」
言いながら、俺は自分に言い聞かせている気もした。
美桜が、ふっと俯く。
人の流れが横を通っていく。春の光が、アスファルトに白く反射する。
「私じゃなきゃダメなの……」
「私が朱音を見ていたいの。一緒のクラスが良かった」
美桜の目には、小さな涙が滲んでいる。
俺は美桜の手を、強く握り直した。
「何かあったら、すぐ美桜のところに行く」
「クラスは別れちゃったけど、部活とか……行き帰りは一緒だよ」
美桜が短く息を吸って、目を逸らさずに言う。
「……絶対だよ」
「うん。絶対」
そう言った瞬間、美桜が俺の頭に頬を乗せてきた。
柔らかい熱が、髪の上に落ちる。
春の風の中で、胸の奥のざわつきだけが、少しずつ静かになっていった。




