第14話 入学
校門の前に立つと、春の空気がいきなり“学校のにおい”に変わった気がした。
新しい制服の布が擦れる音。靴底のゴムが鳴る音。どこか落ち着かない笑い声。
昇降口の前には、もう人だかりができている。クラス発表の紙を見ようと、背伸びしたり、肩をぶつけ合ったりしながら、新入生たちがざわついていた。
施設から、ゆっくり歩いて三十分ちょっと。
近いはずなのに、やけに遠く感じた。
俺は息を整えるように、胸のあたりをそっと押さえる。
大丈夫。走ってない。このペースなら問題ない。
横には美桜がいる。
黒いショートカットが風に揺れていた。美桜は目を細め、緊張を隠すように顔を澄ませている。
「……朱音、苦しくない?」
小声で聞いてくる。こういう時の美桜は、自分のことより先に、まず俺の調子を確かめる。
「大丈夫。ゆっくり歩いたし」
そう答えると、美桜がほんの少しだけ頷いた。
その頷きを見ていると、つられて俺の鼓動も落ち着いていく。
制服のスカートが、膝に当たって揺れる。
歩くたびに布が触れて、まだ慣れない感覚がじわっと残った。
その時、背後から元気な声が突っ込んできた。
「はいはいはーい! 二人とも止まんない! 銅像みたいに固まってんじゃなーい!」
ゆかり姉が自転車で追いつき、片手をぶんぶん振っている。
中学三年生になる余裕なのか、単に通常運転なのか。着古した制服がやけに馴染んで見えた。
「入学初日はね、こういうのが大事! ノリと勢い!」
「朱音ちゃん、息してる? 顔、白いぞ! はい深呼吸! 吸ってー、吐いてー!」
ゆかり姉にかかると、深呼吸すらイベントになる。
言われるまま、ふっと息を吐いた瞬間、美桜が俺の袖を掴んだ。
「……行こ」
「うん」
ゆかり姉のペースに巻き込まれる前に、俺たちは昇降口へ向かった。
人だかりの外側で、足が止まる。
ただの紙一枚なのに、近づくのが怖い。
別々になりませんように。
そんな祈りが浮かんだことに、自分で少し驚いた。
前の人生なら、クラス替えなんてただの事務作業だったはずだ。なのに今は、美桜の隣だけが唯一の“落ち着ける場所”みたいになっている。
美桜が俺の横に立ち、目だけで「見るよ」と合図を送ってくる。
それに頷いて、二人で一歩前へ出た。
目の前は背中ばかりだった。
誰かのリュックが肩に当たり、「あ、ごめん」と声が飛ぶ。背の低い俺は、美桜の後ろについて人波を縫うように進んでいく。
ようやく文字が読める距離まで来て、俺は紙の列を目で追った。
一年一組。
一年二組。
名前を探す。
田中朱音。見つけた。
一年二組。
その瞬間、胸の奥が一回だけ強く鳴った。
すぐに、次の名前を探す。
栗原美桜。
あった。
一年一組。
そこで、世界の音が一段だけ遠くなった気がした。
周囲のざわめきが、分厚いガラス越しに聞こえるみたいになる。
美桜も、同じ場所を見つめたまま固まっていた。
ほんの一秒だけ、目が合う。言葉が出ない。
その間を裂くように、ゆかり姉の声が横から飛んだ。
「えっ、別!? マジか! うそー! えー、ドラマじゃん!」
声が大きい。でかすぎる。
周りの新入生が一瞬こっちを見る。
ゆかり姉は慌てて口を押さえるふりをしたが、すぐ笑って続けた。
「……いやいや、でもさ! 隣のクラスじゃん! 壁一枚だし! 廊下出たらすぐ会えるやつ!」
「ねっ? ほら、二人とも顔、終わってるよ!」
終わっているのは否定できない。
俺は笑おうとしたが、うまく口角が上がらなかった。
ひとしきり励ましてから、ゆかり姉は「じゃあアタシ行くから!」と三年生の集合場所へ自転車を押していった。
残された俺たち。
美桜がふぅ、と息を吐いて、俺の手を一瞬だけぎゅっと握った。
「……休み時間、会えるよね」
俺に聞いているようで、自分自身に言い聞かせているような声だった。
「うん。すぐ会える」
そう答えると、美桜は小さく頷く。
それだけで、胸の奥のざわつきが少しだけ静かになった。
でも、指先にはまだ、言いきれない不安が残っている。
各クラスの教室に移動する。
美桜が一組へ向かい、俺は二組へ向かう。
距離は数メートルしかない。
それなのに、足元がぐらつく感じがした。現実感がない。歩幅を崩さないように、ただ機械的に足を前へ出す。
互いに「じゃあね」とも言わない。
言えない。何を言ったら正解なのか、分からなかった。
俺は二組の教室に入った。
知らない顔ばかりだ。みんな自分の居場所を探して、視線が泳いでいる。それでも、すでに小さな輪はいくつかできていた。小学校が同じだった子もいるんだろう。名前を呼び合う声があちこちで響く。
ガラッ、とドアが開いて先生が入ってきた。
担任だろう。背の高い男性で、声がよく通る。
「一年二組、席につけー。出席取るぞー」
名前が順に呼ばれていく。
呼ばれたら起立して手を挙げ、すぐ座る。俺の番が来た。
「田中朱音」
「はい」
返事は出た。
でも、その瞬間、教室中の視線が俺に集まった気がした。
背の小ささ。幼く見える顔。制服の中で少し余って見える身体。
どう見ても、俺はこの教室の中で浮いている。
先生が、ほんのわずかに目を細めて言った。
「体調のことは、遠慮なく言えよ。無理はしないこと。約束な」
……知ってる。
千夏さんが、事前に話を通してくれているんだろう。
「はい」
頷いた瞬間、胸の奥がちくっと痛んだ。
守られている安心感と、最初から“普通じゃない子”として扱われる居心地の悪さが、同時に刺さる。
先生はそのまま、教室全体を見回した。
「保護者とも話してあることだが、みんなに伝えておく。田中は心臓に持病があって、体調に配慮が必要だ。体育で走らせたり、無理させたりしないように。困っているようなら、手を貸してやってくれ」
教室の何人かが、「はーい」と間延びした返事をした。
悪意がないのは分かる。だから余計に、逃げ場がない。
机の上の木目を見つめる。
今この瞬間だけで、「配慮が必要な子」という輪郭が教室の中にできあがっていく気がした。
俺はふと、廊下側の壁を見た。
透視できるわけでもないのに、見ようとしてしまう。
壁一枚向こう。美桜はもう、一組の教室の中だ。
そこにいるはずなのに、今は手が届かない。
隣にいないだけで、こんなに落ち着かない。
それが情けないのか、寂しいのか、自分でもうまく分からない。
窓から新しい風が吹き込んだ。
チョークと、埃と、春の匂い。
新しい席。新しい机。
新しい生活。
俺は膝の上で、自分の手をそっと握った。
震えを止めるためじゃない。
一人でも、大丈夫だ。
そう、何度も心の中で言い聞かせるために。
でも、握った指の間に残る感覚は、さっき美桜が握ってくれた温度のままだった。
そのぬくもりだけを頼りに、俺は椅子に深く腰を下ろした。




