56 水色の紐
ダイヤモンドが無防備で盗まれていたことや、ローズの不在、S級シェイムの負傷もあって、特捜課は追い出されるようにヴィーナ・リリー共和国を出た。
ハミルは彼が帰ってくるまで待ちたかったが、ハミルもまた怪我をしていたので、ミストにこっぴどく叱られた。
結局、やむを得ず先に帰国した。
ジェノマニアに着くと、今まで一度も連絡してこなかったモルディオから着信があった。
電話に出ると、イノセント・スティールのノートを持って、午後九時にクリムゾン・スターに来てほしいとのことだった。
***
少し遅れてマーキュリアに着いたセヴィスは、シェイムの容態を確かめに医務室に行った。
一番得意な中年の変装だったが、観光地に近いヴィーナ・リリー美術館なら怪しまれることもなかった。
シェイムは未だ意識を取り戻していない。
それでも治療が早かったので命に別状はないという。
これ以上シェイムをサキュバスとの戦いに巻き込むのは、さすがに酷だ。
そう思ったセヴィスは、ハミルたちに任せろといった旨を記した手紙を残しておいた。
それからハミルが乗った便の次の便に乗って、ジェノマニアに行った。
ダイヤモンドを盗むのに世界中を回って、ただでさえ疲れが溜まっているのに、飛行機の中で眠ることができなかった。
隣の席に座っていたお喋りな老婆に軽く追い詰められたのだ。
老婆はまずダイヤモンドを入れた皮袋の中身を聞いてきた。
それだけならまだよかったのだが、老婆の話は中々終わらない。
挙句の果てに老婆は「そういえばあんた、セヴィスに似てるって言われない?」と言ってきて、さすがに焦った。
得意だと思っていた中年の変装が、警察でもない老婆に見破られた。
無論死んだことになっているので本人は気づいていないが、あの老婆のせいで眠れなかったと言っても過言ではない。
クレアラッツに着いたのは午後七時頃で、モルディオが午後九時にクリムゾン・スターでハミルと落ち合うことや、家にダイヤモンドを置いてほしいと伝えてきた。
自分の家はローズの親名義で買い取ったことになっているが、使ってもいいらしい。
死んだことになっているとはいえ、迷惑甚だしい。
自宅に入ると、ウィンズが使っていた武器開発部屋にナイトメア・カタルシスの設計図が置いてあった。
今はいないが、ローズはこの家を使って武器を作ろうとしているようだ。
ローズがいなかったことに少し安心して、言われた通りの場所にダイヤモンドを置く。
それから部屋に行って、中年のまま仮眠を取る。
仮眠を取った後、時間より少し早めにクリムゾン・スターに向かった。
クリムゾン・スターはいつもより早く閉店していた。
カーテンも閉まっていて、窓から中を見ることができない。
扉を開けると聞きなれたベルの音が木霊す。
店の中は誰もいなかった。
アルジオとマリは帰ったのだろう。
シンクは『宝石』を調達する為に、モルディオから引き受けた悪魔討伐に向かっていると聞いている。
変装を解き、奥に進んで扉を開けると、ミルフィがテレビを見ていた。
「セビ? 九時に来るって聞いてたのに」
ミルフィはテレビの電源を切って、こちらに顔を向けた。
首に桃色のリボンのようなものが巻かれている。
ヴィーナ・リリーの美術館で似たようなものを何度か見たが、これは何なのだろう。
「早く来たら、悪かったか」
「ううん、全然。あ、そうだ」
いつもシンクが座っている椅子に座ると、ミルフィは机の上にあった水色のリボンのようなものを取り、差し出してきた。
彼女の首に巻かれているものとよく似ている。
「これ、ヴィーナ・リリーの名産で、ブラニューデって言うんだって。シェイムに教えてもらったんだ」
「ブラニューデ?」
「首に巻いておくと、願いが叶うんだって」
「こんなもので願い、か。嘘くさいな」
こんなもので願いが叶うなら、両親ともう一度会いたい。
所詮それは叶わない願いだ。
最初から叶わないことを願って、何になるのだろう。
昔から神頼みや迷信を信じなかった。
神なんてものがいるのなら、自分だけこんな境遇を味わうこともなかったはずだ。
今はそこまで後悔していないが、そういうものを信じないのは変わらない。
だから、何かにすがって生きるのは、嫌いだった。
ミルフィには悪いが、このブラニューデというものには嫌悪しか沸かない。
「そんなこと言わないでよ。あたしの願い事は叶ったんだから」
「……何が叶ったんだ」
「あたしはニュースを聞いた時、セビがどこかで生きてることを祈ってたんだ。だから、こうしてまた会えたのも」
「その紐のおかげだって言うのか?」
「……あたしはそうだと思ったんだけど」
「こんな迷信に頼らなくたって、俺は最初からここに戻ってくるつもりだった。もう少し、信じてくれたって」
「えっ?」
「何でもない。とにかくこいつを着ければいいんだな」
そう言って、セヴィスはミルフィから水色のブラニューデを奪った。
もういない両親に、これ以上自分の未来を頼るのはやめよう。
ウィンズが持っていたレコーダーに残された、母のメッセージを聞けただけでも感謝した方がいい。
「着けてくれるの? よかった」
「俺はこんなの信じてないからな」
「じゃあ何で?」
「……断る理由が思いつかないから」
ミルフィはほんの少し顔を赤くして、視線を何もない扉に移す。
これに頼るのも気が引けるが、これをかけがえのない証にするのは悪くない。
「よく分かんないけど、それなら巻いてみてよ」
そう言われて巻いてみるが、結び方が分からない。
自分の首は自分で見ることができないので、適当に縛ると首が絞まって苦しい。
無理に解こうとすると、絡まってしまった。
見るに見兼ねたのか、ミルフィが腕を伸ばしてきた。
「おい……」
「ごめん、苦しかった?」
顔が近い。
そう言おうとしても、言葉にならなかった。
ミルフィが結び終わるまで、この距離を保てる自信がない。
意識がどうしても首から逸れる。
ただでさえ熱を帯びた身体が、さらに火照る。
「あれ? 余った。長かったかな」
ミルフィは背を向け、鋏に手を伸ばす。
一度息を吸う。
彼女に隠していたことを話そう。
その為に、時間より早くここに来たのだから。
「ミルフィ、俺が……フレグランスだって言ったら、信じるか?」
ミルフィの動きが一瞬止まった。
「信じるよ。なんとなく、そんな気がしてたから」
ミルフィは鋏を手に取り、再び近づいてきた。
てっきり驚くと思っていたが、驚かされたのは自分の方だった。
「気づいてたのか?」
「セビが来ないとかセビが忙しいって店長が言う日は、大体フレグランスの予告状が来た日だったからね。しかもちょっと聞いたらセビはフレグランスに興味ないとか言って話題を変えようとするから」
「確かに、シンクは嘘が下手だな」
水色の紐が切断され、机に鋏が置かれる。
「前からセビと店長は何か隠してるって思ってた。でもセビがフレグランスでも、あたしに態度を変えるつもりはないよ。あたしは監禁されてたからフレグランスのことよく知らないし……ダイヤモンドはサキュバスを倒すのに必要なんだって、モルディオが言ってた。だから捕まらない限りは、何も言わない」
「……そうか」
「それより、あたしに話してくれたことが嬉しいよ。あたしは所持者の性質のこと、話さなかった。何度謝っても謝りきれないよ」
ミルフィは俯いた。
所持者関連になると、彼女は卑屈になる。
アフター・ヘヴンのせいで長年監禁されてきたのだから、仕方ないことなのだろう。
所持者にとって男を手玉に取ることは容易い。
自分だって、その一人だ。
彼女が所持者でなければ、出会うこともなかった。
「本当に……」
『ごめん』と口が動く前に、彼女の肩を掴み、唇をそっと塞いだ。
彼女が驚いて固くなっているのを感じた。
離れても、彼女の表情は変わらなかった。
「セビ……」
彼女はうつむき、悲しそうに自分の名前を呼ぶ。
何も言わずに頬を撫でると、彼女は顔を上げた。
その瞳には涙が浮かんでいる。
「駄目だよ、あたしは……」
「分かってる」
もう一度、唇を重ねる。
彼女は驚いていたが、すぐに目を閉じて受け入れた。
自分も目を閉じて、唇から伝わる彼女の体温を感じる。
こぼれた涙が、頬に添えた手にかかる。
「っ……」
離れると、彼女は視線を落とした。
「何で……」
「今更、何驚いてるんだ。先にしたのはお前の方だろ」
「でもあたしは所持者なんだよ。あたしのせいで、あんたは」
軽く口づけただけなのに、身体を熱が苛んだ。
今を耐えなければ、ただ所持者の性質に支配されただけの人間になる。
それでは慰めどころか何の意味もない。
「またそれか……」
「聞いたんじゃないの? 所持者とキスした人間は、依存して、おかしくなるかもしれないんだよ」
「ああ、数回ならともかく、何度も繰り返せば、所持者から離れられない人間に堕ちるらしいな」
「あたしは、あんたにそんな風になってほしくないよ……」
涙が頬を滴る。
それを親指で拭った。
「もう自分が所持者だからとか、そんなことで悩まなくていい」
「えっ……」
落としていた視線が、自分に向けられる。
「あいつらが来たら、ジュエルバレットをお前に飲んでもらうことになったんだ」
「ジュエルバレットって……」
「そうすれば、アフター・ヘヴンは消滅する」
彼女は目を見開いた。
「そんな、あたしの為に、いいの?」
「ああ。今まですまなかったな。所持者をやめたら、好きな所に行っていいから」
「……ありがとう」
ミルフィは一瞬だけ暗い表情をした。
その理由を考えずに、身体を引き寄せ、抱きしめる。
「熱い……」
「これで分かっただろ。俺だって、所持者に翻弄された、ただの男だ。お前と会う度に、身体が熱くなって、今もお前とのキスが欲しくてたまらない。お前と離れるだけで、身体が求めるから……いつも、別れるのがつらかった」
「あたしが、あんたをそういう身体にしてしまったんだね……」
彼女の腕が、背中に回される。
拒絶されなかった安堵と、もう一度彼女に抱きしめてもらえた喜びで、自分の心は満たされていく。
「でも、それがなかったらサキュバスに支配されて死んでたんだ。生きる代わりにこうなったって思えば、幸せなんだ。お前が所持者をやめれば、俺もお前も悩む必要がなくなるからな」
「……」
「俺は、あの時お前を受け入れたことに、後悔なんかしてない。だから、お前は生きて責任取ってくれ。それを、この紐に願うことにするから」
「そんなのずるいよ。こんなの信じてないって、言ったくせに」
「……そうだな」
少しの間、抱擁を交わす。
約束の時間がなかったら、もう少し、このままでいられたのに。
そんなことばかり考えていた。
彼女は、倒すべき相手の娘で、何よりも大切な人。
死を目前に感じて、彼女のいない七日間を過ごして――初めて、自分の感情を自覚した。
自分はこんなにも彼女が好きで、愛しているのだと。




