第八話 朱く染まる
砦が、燃えていた。
私たちは、振り返らずに走った。
背中のほうで、怒号と悲鳴が遠ざかっていく。
周りには、私とマルコしか見えなかった。
アメリーの指示を一緒に受けた、あの兵士たちの行方はわからない。
彼らも、上手く脱出出来たのだろうか。
斜面を駆け下りて、林の中へ入った。
何本もの枝が、顔を打つ。
足が何度も木の根に取られた。
それでも止まらなかった。
止まったら、追いつかれる。
追いつかれたらどうなるか。
いや、考えない。
大丈夫。
マルコが、私の少し前を走っていた。
その背中を見失わないように走った。
背中が見える。
まだ一人じゃない。
頭の中は、真っ白だった。
ゲルナー。
アメリー。
ネイト。
名前が、順番に浮かんでは、消える。
みんな、ついさっきまで生きていた。
それが、うまく、繋がらなかった。
悲しいとも思えなかった。
まるで、今までのことが嘘かのように思えた。
息が続かなかった。
訓練学校で、ブレイク魔法の撃ち方は習った。
シルト魔法の張り方も習った。
でも、敵から逃げる方法なんて習っていない。
マルコは時々、後ろを振り返って、私がついてきているのを確かめた。
速く走れとは言わなかった。
私の速度に合わせてくれているのが分かった。
こんな時でも、人のことを気遣えるんだ、と思った。
どれだけ、走っただろう。
林が切れて、なだらかな下り坂に出た。
その先に、見覚えのある景色があった。
砦に派遣される道中で見た村。
たぶんあれが、アメリーの故郷。
まだ遠い。
でも、あそこまで行けば。
「マチルダ」
マルコが、息を切らしながら言った。
「村まで、行くぞ。……行って、本国に伝える。砦が落ちたって」
「うん」
「なあ、マチルダ。約束……覚えてるか?」
「約束?」
マルコは、少し笑った。
「畑だよ。麦の。……お前も、来るんだろ」
「……うん。行くよ」
嘘だと、二人とも分かっていた。
でもその嘘を、今は信じたかった。
信じていないと、足が動かなかった。
その時後ろで、音がした。
地面を蹴る音。
蹄だ。
振り返ると、林の切れ目から騎馬が数騎。
まっすぐこちらへ。
逃げる伝令を、追ってきたのだ。
人の足が、馬に勝てるわけがなかった。
誰かが囮にならないと、二人とも追いつかれる。
ゲルナーさんが、砦でそうしたように。
その理屈が頭に浮かんだ。
でも、体が反応しなかった。
マルコが、足を止めた。
「え、マルコ?」
「先に行け」
「え……」
「おれが止める。お前は村まで走れ」
「なに、言ってるの。一緒に――」
「一緒には、行けないんだよ!」
私は、マルコの腕を掴んだ。
放したくなかった。
この手を放したら、もう二度と。
「駄目。置いて、いけない!」
「……マチルダ」
マルコの顔は、真っ白だった。
ここに来て初めての夜、震える手でシルトを張った、あの時と同じ顔だった。
それでも彼は、私の手を、そっと外した。
優しい外し方だった。
「先に行ってろ。畑、一緒にやるって、約束しただろ?」
私は、動けなかった。
今度は、腕を引いてくれる人がいなかった。
アメリーの時は、マルコが引いてくれた。
でも、今は。
自分で、決めなければいけなかった。
「行け!」
マルコが怒鳴った。
初めて聞く声だった。
その声に押されるように、私は背を向けた。
足が重かった。
頭ではマルコと共に。
そう思っているのに。
自分の足で、大切な人を置いていく。
そんなことが、出来るようになっていた。
私は、背を向けてしまった。
走った。
涙で、前がぼやけた。
拭う暇もなかった。
振り返った。
また、振り返ってしまった。
マルコが戦っていた。
石の槍を、次々と放って。
喉が裂けるほど、詠唱していた。
鼻から、血が流れていた。
それでも止めなかった。
指先の痺れなんて、とっくに超えていただろう。
マルコは、ここで死ぬ気なんだ。
そういう意志が、彼の背中から感じられた。
最後の一騎。
マルコの石の槍に、胸を貫かれながら。
その剣を、マルコに届かせた。
二人、同時に倒れた。
主を失った馬が、走り去った。
あとには、動かないものだけが残った。
マルコと、呼びかけた。
声にはならなかった。
戻ろうとした。
でも、そこまで行けなかった。
行ってももう、どうにもならないと分かっていた。
私は立ち止まっていた。
いつのまにか、走るのをやめていた。
もう、追ってくる馬はいなかった。
マルコが全部、道連れにしてくれたからだ。
私は、なにも動かない場所を見ていた。
もう、みんないなくなった。
ゲルナーも。
アメリーも。
ネイトも。
マルコも。
昨日まで、確かにそこにいた人たちが。
今は、一人きり。
声が出そうになった。
でも出さなかった。
声を出せば、追っ手に気づかれるかもしれない。
こんな時でも私は、まだ生き延びようとしていた。
そのことが、とてもみじめだった。
空は、雲一つなかった。
どこかで、鳥が鳴いていた。
こんなにたくさんの人が死んだのに、世界は何ひとつ変わっていなかった。
村は、まだ遠くにあった。
行かなければ。
マルコが、行けと言ったから。
でも、体が動かなかった。
目の前に広がる景色が、朱く染まっていった。




