第五話 細い月の夜
しばらく、静かな日が続いた。
ゼーラントは、本格的に攻めては来なかった。
斥候の話によれば、軍の立て直しで、ごたごたしているみたいだ。
この隙にこちらから攻撃を、という意見も出たみたいだが、防備を固めることに決めたらしい。
魔物は時々出てくる。
けど、あの日ほどの群れは来ていない。
周りだけを見れば、いたって平和な日々だ。
朝いちばんに、水を汲む。
みんなで砦を補強して、昼食を食べる。
眠るのは交代で、松明は絶やさない。
いつのまにか、ここの生活が体に馴染んでいた。
静かな日は、静かな日で怖い。
やがて来る、戦のことを考えてしまうからだ。
だからみんな、手を動かしていた。
壁の石を積み直したり、矢を束ねたり。
意味があるのか分からない作業を、無心で繰り返す。
「おいマチルダ、あれを見ろよ」
マルコが指を指した。
本国から、補充の兵士が来たみたいだ。
数は多くない。
二十か三十ほど。
「まったく、あんな人数来たって、たいして変わらないだろう」
「シュタイン隊の補充はなさそうだね」
「そりゃそうだろう。こんな危険なところに駆り出されるシュタイン隊なんて、訓練生上がりの人間くらいだよ」
「……私たちが来てから、それほど時間は経ってないもんね」
「ああ、信じられないけどな」
適性のある人間は、そもそも数が少ない。
訓練にも時間が掛かる。
だから私たちは、減る一方だった。
欠けても、埋まらない。
新しく来た兵士の中には、私より年下に見える子もいた。
配属されたばかりの、あの頃の私と、同じような顔をしている。
そのうち一人が、私に聞いてきた。
「す、すみません。リモン隊長はどこですか?」
「リモンさんなら、あっちにいたと思うよ」
「ありがとうございます」
そう言って、彼は立ち去ろうとした。
なんとなく、気になった。
「ねえ君、何歳?」
その若い兵士は振り返った。
「十七歳のネイトです。国の英雄になって来いって、父さんに言われて兵士になりました」
「……そっか」
ネイトは軽く会釈をして、立ち去った。
英雄、か。
私は、作業を続けた。
次の戦いに備えるために。
その日の夜は、月が細かった。
新月の夜は、魔物が出ない。
いや、正確には、ほとんど出てこない。
久しぶりに、みんなの休憩時間がかぶった。
マルコ、ゲルナー、それとアメリーの四人での食事だ。
「ゲルナー。あんた、また肉のいいとこ取ったろ」
「取ってません」
「わたしの目は誤魔化せないよ。正直に言いな」
「……ちょっとだけです」
「ほら見な」
アメリーが笑って、ゲルナーの椀から、肉を一つつまみ上げた。
ゲルナーが、情けない声を出す。
私とマルコは笑った。
「アメリーさんこそ、人の肉ばっかり狙わないでくださいよ」
ゲルナーが、小さく言い返した。
アメリーが、目を丸くする。
「お。言うようになったじゃないか」
「アメリーさんと飯食うと、いつもこうなんで」
「先輩を立てるんだよ。それがここの掟だ」
「いやいや、そんな掟聞いたことないですよ」
久しぶりに、ゲルナーが笑った気がした。
あの朝、火の入る前の薪を、ただ見ていた人が。
まだ時々、遠くを見る目をする。
でも最近は、昔のゲルナーに戻ってきたような気がする。
少しだけ。
それで、十分だと思った。
「なあ、マチルダ」
マルコが、小さい声で言った。
「こういうの、悪くないな」
「そうだね」
「俺さ、この戦争が終わったら、故郷で畑でもやろうかなって思ってるんだ」
「畑?」
「ああ。うちは麦をやってるんだ。兄貴が継ぐけど、隣の土地が空くらしくてさ」
マルコは、火を見ながら少し笑った。
「お前も来るか? 人手が要る」
「畑仕事なんて、できないよ」
「教えてやるよ」
「……それもいいかもね」
その時は、いつ来るのか。
シュタイン隊として、ここに派遣されている私たちが、いつ帰れるのか。
二人とも、口にはしなかった。
口にすると、叶わなくなってしまいそうな気がしたから。
アメリーは、火のそばで膝を抱えていた。
その横顔を、炎が赤く照らしている。
いつも周りを見ているこの人が、今だけは、火だけを見ていた。
「アメリーさんは……」
私は、聞いてみた。
「怖くないんですか?」
アメリーは、少し黙った。
「怖いさ。毎晩ね」
そう言って、笑った。
意外だった。
この人が、そんなことを言うなんて。
「でも、この砦の後方。すこし行ったところに村がある」
「ここに来るときに見ました。平和そうな村でした」
「私の故郷なんだ。両親と弟がいる。家族を食わせないとね。幸い、ここの給料はいいんだ。だからここにいる」
そう言って、また笑う。
「かっこいい理由じゃなくて、悪いね」
私は、その理由のほうが、よほどいいと思った。
守るものが、国でも名誉でもなく、家族のため。
そのためにこの人は、三年も戦場にいる。
訓練学校では、名誉のために戦え、と教わった。
でも、この砦で、名誉のために戦っている人を、私はまだ一人も見ていなかった。
ふと、昼に見たあの少年のことを思い出した。
でもすぐに、考えるのをやめた。
私たちが、ここに来たばかりの頃を思い出してしまうから。
次の日も、静かだった。
その次の日は、少しだけ、ゼーラントが来た。
矢が何本か飛んで、退いていった。
「様子見だね」
アメリーは、そう言っただけだった。
私は前より、手が止まらなくなっていた。
魔素を吸い込み過ぎずに、撃つ。
誰かに当たっても、もう手は震えなかった。
上手くなった、とは思わなかった。
ただ、慣れた。
慣れるというのはたぶん、こういうことだった。
それから月は、何度も満ちて、欠けた。
いつのまにか私は、暦ではなく、月で時間を数えるようになっていた。
ある日の夜、私は久しぶりに、ベルク山のことを思い出した。
生まれてから、毎朝見ていた山。
訓練生時代の二年間は、あの山で過ごした。
もうずいぶん長く、思い出していなかった。
思い出さなくても、平気になっていた。
空を見上げると、月が細い。
こんな夜なら、誰も死なない。
毎日、こんな夜だといいな。
そう思って、私は目を閉じた。
そう思うことが、出来るようになっていた。




