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幻のなかで 〜名誉を教えた男は、送り出した教え子の顔を一つも覚えていない〜  作者: 星喰ゆう
第三章 フリード

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第四十二話 門の向こう

 人の波に呑まれて、私たちは内門の中へ押し込まれた。


 気づけばそこは、別の世界のようだった。


 石畳は清潔で、血の匂いもしない。


 貴族たちの区画だ。


 血と泥にまみれて逃げ込んできた兵士や民が、石畳に倒れ込む。


 その様子を、着飾った者たちが、眉をひそめて見つめている。


 汚らわしいものでも見るように。


 外では、フェルゼンの国民が死んでいる。


 ここの連中を、生かすために死んでいる。


 これが、命を賭けた者に対する態度なのか。


 私が教えてきたことの終着点が、ここなのか。


 その時、めまいがしたような感覚があった。



 門が閉まる音がした。


 エミール。


 私は振り返った。


 内門の、まだ閉じきらない隙間のその向こう。


 崩れた市街地から、兵士と民が折り重なるようにして逃げてくる。


 その中に。


 エミールがいた。


 人に押され転び、また立ち上がって。


 こちらへ、必死に手を伸ばしていた。


「エミール!」


 ティルが叫んだ。



 門は、もう半分まで閉まっていた。


 重い鉄の塊が軋みながら、少しずつ降りている。


 私はティルと共に、その隙間へ駆け戻ろうとした。


 だが、逃げ込んでくる兵士と民の波が、正面からぶつかってくる。


 一歩進むごとに、二歩押し戻される。


 人の頭越しに、エミールの姿が見えた。


 近い。


 手を伸ばせば、届きそうだ。


 なのにその距離が、どうしても詰まらなかった。


 波に逆らう私たちは、川を遡る小枝のようなものだった。


「なにやってる、はやく閉めろ! 閉めるんだ!」


 怒鳴り声が響いた。


 内門の中。


 衛兵に守られて、門の近くまで来ていた。


 エグモントが、顔を真っ赤にして叫んでいた。


「急げ! 敵が入ってくるぞ! この中の者まで、皆殺しにする気か!」

「は、はい」


 兵士たちが、急いで門を閉めはじめた。


 それでも、門は少しずつしか降りなかった。



「待ってくれ! まだ外に、味方がいるんだ!」


 私は叫んでいた。


 さっきまで、何も考えられなかったはずの私が、そのときだけは必死に叫んでいた。


 ティルが、閉じていく門に取りついた。


 全身で、押し開けようとする。


「閉めるな! まだ残ってる! すぐそこにいるんだ!」

「邪魔するな!」


 エグモントが吐き捨てた。


「敵はもうそこまで来てるのだ! この中には、女も子供もいるのだぞ!」

「外にもいるだろう! みんなここに逃げてきてる! みんな殺され――」

「だとしてもだ!」


 エグモントが、ティルの言葉を遮った。


「だとしても、門を閉めなければ、ここにいる全員確実に皆殺しだ。ここにいれば、助かる命があるかもしれない」


 正しかった。


 悔しいが、その男の言うことは正しかった。


 門を開けていれば、敵が雪崩れ込む。


 この内側にいる者が、皆死ぬ。


 確実に死ぬ選択肢より、生きる可能性がある選択肢を取らなければいけない。


 ここには、名誉の死なんてないのだから。


 その冷たい理屈に、私は言葉が出なかった。



 敵の騎馬隊が、逃げてくる人の隙間から見えた。


 もう、すぐそこだ。


「——けるな」


 ティルの口から、言葉が漏れた。


「ふざけるな! 自分たちだけが助かりたいだけだろう! はやく開けろ、このクズ野郎!」

「なっ!」


 その言葉を聞いて、衛兵がティルを地面に抑えつけた。


「貴様! エグモント卿になんてことを!」

「殺されたいのか! このクソガキが!」


 ティルが必死にもがいている。


 私は、動けなかった。



 そうしている間にも、門の隙間が人ひとり分もなくなっていく。


 その、最後の隙間の向こうで。


 エミールがこちらを見た。


 目が合った。


 あの、覇気のない気弱な目が。


 まっすぐに私を見ていた。


 助けを求めて、泣き叫ぶこともなかった。


 ただ、見ていた。


「もう間に合わん! 縄を切れ!」

「は、はい」


 次の瞬間。


 門が、勢いよく閉じた。


 重い音を立てて。


 外と内を、断ち切った。


「エミール!」


 抑えつけられながら、ティルは叫んだ。


 その直後。


 門の向こうで、蹄の音と、悲鳴が重なった。


 逃げ場を失った兵士と民を、蹴散らしていく音。


 その音の中に、エミールの声は、もう探せなかった。


 やがて。


 固く閉じた門のわずかな隙間から、黒いものが、内側へ流れ込んできた。


 血だった。


 誰のものとも知れない血が、清潔な石畳を汚していった。


 内門の中は、ひどく静かに感じた。



 ティルは、門のほうを見つめて、動けなくなっていた。


 その右手に、血が流れてきた。


 その右手を、地面に叩きつけた。


 何度も。

 何度も。


「間に合ったか。おい、ヴィクトルはどこだ?」


 そう言いながら、奥へ引っ込んでいった。


 ティルを抑えつけていた衛兵も、エグモントに続いて立ち去った。


 その様子を、ティルは振り返って睨んでいた。


 その顔は、涙と怒りでぐちゃぐちゃだった。


 退いてきた兵士たちが、それを見ていた。


 外の仲間を救えなくて、泣き崩れた子供を。

 奥へ消えていく貴族を。

 石畳に広がっていく血を。


 誰も、何も言えなかった。


 だが、その目には。


 何か、冷たいものが宿りはじめていた。



「大丈夫か、坊主?」


 そう言いながら、外から逃げてきた一人の兵士が手を差し伸べた。


 ティルは、その男の手を振り払い、門に取りついた。


 拳が裂けるのも構わずに、叩き続ける。


 そのたびに、拳に付いた誰かの血が、門にこびりついた。


「くそ……くそ……くそ! くそ!」


 やがてその声は、言葉にならない、獣のような叫びに変わった。


 私はその背に、手を伸ばそうとした。


 だがその手も。

 かけてやる言葉も。


 私は持っていなかった。


 伸ばしかけた手を下ろすことしか、できなかった。


 助けようとした。

 声も出した。

 駆け戻ろうともした。


 なのに、私は何も出来なかった。


 いつも勝手に動いて、子供たちを守ってきたこの体は。


 一番肝心なときに、ただ立っていただけだった。



 ゾフィーは闇に落ちて、エミールは門の向こうで見えなくなった。


 二人とも、私は助けられなかった。


 いや、他にもいたはずだ。


 訓練所から、送り出した者たち。


 そのほとんどが、私の知らないところで死んだはずだ。


 ティルの泣き叫ぶ声だけが、貴族の住処にいつまでも響いていた。

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