第三十八話 借り物の一日
四人を近くの椅子に座らせて、私は立ち尽くしていた。
足が動かなかった。
やるべきことは、山ほどあった。
人が足りない。
それはわかっていた。
わかっていてなお、冷たくなった遺体の前に、立ち尽くしていた。
戦場は、はじめてではない。
私は知っていたはずだ。
いい奴から死んでいく。
ラルフも、ガルズも。
過去の教え子たちも、こうして死んでいったのかもしれない。
私の知らないところで。
大切な人間に、別れの言葉も言えないまま。
そのことを考えるとなぜか、体の芯から震えがきた。
「フリード、か」
誰かが、話しかけてきた。
振り返ると、そこにはヴィクトルがいた。
返り血だろうか。
鎧が黒い血で濡れていた。
「……ヴィクトル総司令」
「……そうか、ガルズは死んだか」
「はい。立派に戦って、逝きました」
ヴィクトルは跪き、ガルズの胸に手をやった。
「だろうな。ガルズらしい」
それからしばらく、ヴィクトルはなにも話さなかった。
この二人が、本当の意味でどういう関係だったのか。
それは私にはわからない。
だがその背中を見れば、とても大切な友人だったのだろうとわかってしまう。
「出世払いの約束はどうするのだ。馬鹿者め」
ヴィクトルが、ぼそりと呟いた。
彼もまた、別れの言葉を言えないうちの一人だった。
内門のほうから、足音が近づいてきた。
数人の衛兵を引き連れた、恰幅のいい男。
エグモント卿だった。
以前、訓練所に視察に来たあの男だ。
着飾った服も、太った体も、あのときのままだった。
ただ、血と土埃の匂いの中では、その姿がひどく場違いに見えた。
エグモントはまっすぐ、こちらに向かってきた。
その足が、並べられた遺体の列をまたいでいく。
まるで、石でもまたぐように。
「総司令! これは、どういうことだ!」
甲高い声が、響いた。
「魔物が、町の中にまで入り込んだと聞いたぞ。なにをやっておるのだ、まったく」
ヴィクトルは、答えなかった。
「もし、我々の区画にまで、あんなものが来ていたら、どうするつもりだ。貴様らの役目は、フェルゼンを守ること、すなわち、我々を守ることなのだぞ。二度とあってはならん」
ヴィクトルはただ、頭を下げた。
「……申し訳ございません。しかし、兵力が乏しく、このままでは――」
「泣き言を聞きたいのではない! 何故、貴様を総司令に推薦したと思っておるのだ。わしの面目が丸つぶれではないか!」
ヴィクトルは、また答えなかった。
ただ、頭を下げていた。
エグモントは、鼻を鳴らした。
「まったく。これだから、戦場しか知らん者は。よいか、必ず死守しろ。わしを後悔させるでないぞ」
そう言って、また遺体の列をまたいで、内門のほうへ戻っていった。
最後まで、足元の遺体を見なかった。
私は、その背を見送った。
つい先日あの男は、訓練所で子供たちを「駒」と呼んだ。
いい駒を仕上げてくれ、と。
あの男の足元に並んでいる兵士たちも、あの男にとっては駒でしかない。
駒がいくつなくなろうと、もう関係がないのだ。
近くでティルが、拳を握りしめていた。
今にも、あの背に掴みかかりそうな目をしていた。
「ティル」
私は、その肩を掴んだ。
「……やめておけ」
ティルは、私の手を振り払った。
「教官は、悔しくないんですか?」
私は、答えられなかった。
まただ。
この子の問いに私は、いつも答えられない。
「……少し休め」
そう言うことしか、出来なかった。
エグモントが去ったあと、ヴィクトルはしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
私は、声をかけるべきか迷った。
だが、ヴィクトルのほうが先に口を開いた。
「……フリード」
ガルズの顔を見下ろしたまま、だった。
「我々は、何を守っているんだろうな」
私は答えられなかった。
以前、ティルに問われたことと同じだった。
私は、黙っていた。
ヴィクトルは、振り返った。
「……今日は、攻めてこないだろう」
壁の外へ目をやりながら、ヴィクトルは言った。
「やつらも、あの魔物に相当やられたはずだ。君たちも、少し休むといい」
「……はい」
「フーゴ、戦える者の人数を報告しろ。作戦を立てるぞ」
その声はもう、総司令のものに戻っていた。
ターニャが、診療所から出てきた。
どうやら、ひと段落ついたらしい。
「フリード教官。これを」
彼女の手には、椀に入った液体が五杯あった。
「これは?」
「ルイネクサの根っこを煎じたものです。魔素酔いに効くわけではないですが、疲労回復に多少効果があります」
そう言ってターニャは、私たちにその飲み物を渡した。
ゾフィーとルイーゼは、それを一口飲んで咳き込み、エミールはなんとも言えない顔に、ティルは一気に飲み干した。
「あなたたちも、大変だったみたいね」
そう言いながら、ルイーゼの頭を撫でた。
「ターニャ、先生」
「どうしたの? ルイーゼ」
「……ラルフ、教官が、教官が」
ルイーゼの言葉を聞いて、ターニャは振り返った。
ラルフのいるほうへ。
ターニャは、遺体の並んでいる脇を歩いて行った。
やがて、その足が止まった。
手にしていた木の盆が滑り落ちて、土の上で乾いた音を立てた。
彼女は、声を上げなかった。
泣き崩れもしなかった。
ただ、ラルフの顔に、手を伸ばして――途中で止めた。
ターニャは、冷たくなったラルフの遺体を見ていた。
どれほど、そうしていただろう。
手の甲で一度だけ、目元を拭った。
そして、何事もなかったように、診療所の中へ戻っていった。
中では、まだ生きている者が、彼女を待っているのだから。
私はやはり、かける言葉を持たなかった。
それどころか、私はラルフの死を、この口で伝えられなかった。
私が伝えなければいけないことだった。
ターニャから貰った薬湯を一口飲んだ。
なんの味も感じなかった。
私は四人を連れて、宿舎へ向かった。
ルイーゼの手は、ゾフィーが引いていった。
結局その日は、ヴィクトルの読み通り、ゼーラントは動かなかった。
遠くで角笛が鳴っても、攻めてくる様子はなかった。
互いに、あの魔物に削られすぎていた。
借り物のような、静かな一日だった。
この静けさが、終わりを意味しないということは、誰もが知っていた。
あと何人。
何人失えば、この戦は終わるのだろうか。




