第三十六話 同じ空の下で
魔物。
その一言で、壁の上の時間が止まった。
誰もが、空を見上げていた。
薄暗い空の一点が、うごめいている。
無数の翼が重なり合って、空を黒く塗り潰していた。
羽音が、遅れて届いてくる。
地鳴りのような、低いうなり。
数は、数えられなかった。
包囲するゼーラントの大軍すら、あの影の下では小さく見えた。
「な、なんだよ、あれ……」
隣の兵士が、剣を握ったまま動けずにいた。
私にも、わからなかった。
今まで生きてきて、あれほどの魔物の群れは、見たことがない。
ベルク山に出る魔物は、せいぜい数匹。
村を襲うのでも、十数匹がいいところだ。
あれは群れというより、災厄だった。
黒い影が、ゆっくりと傾いた。
群れが、平野へ向かって降りていく。
ゼーラントの陣の中に。
悲鳴が、ここまで届いた。
天幕が、薙ぎ倒されていく。
逃げ惑う兵の間に魔物が降り立ち、人を咥えて、また舞い上がる。
あれほど堅牢に見えた攻城櫓が、あっという間に倒れた。
ついさっきまで、我々フェルゼンを喰らおうとしていた軍が、今、魔物に食われている。
「……ざまあみろ」
誰かが呟いた。
その声に、笑いはなかった。
ただ、怯えだけがあった。
敵が食われるのを見て、安堵する者は一人もいなかった。
次は、こちらだと、誰もがわかっていた。
ガルズが壁の縁から、身を乗り出していた。
その顔には、いつもの余裕がなかった。
「おい、フリード」
低い声だった。
「あいつら、何に寄ってきてると思う?」
「それは……」
私は、壁の下へ目をやった。
城壁の際。
昨日からの攻防で、積み上がった死体の山。
敵も味方も、見境なく。
乾ききらない血が、地面や壁を黒く染めていた。
魔物は、平野の陣を食い荒らしながら、少しずつこちらへ寄ってきている。
死の匂いの、濃いほうへ。
「死体だ」
私は言った。
「血の匂いに、吸い寄せられてる」
ここがいちばん濃い。
両軍が丸二日、殺し合った場所だ。
「やっぱりか」
ガルズもわかっていた。
群れの一部が、ぐるりと向きを変えた。
平野から、城壁へ。
まっすぐに。
「くそ、来やがった! 総員、構えろ! ありったけの矢を喰らわせてやれ!」
ガルズが、怒鳴った。
「シュタイン隊! シルトを張れ! 頭上だ!」
とっさに、私は叫んでいた。
シュタイン隊が、私の声に呼応した。
「山は動かず、石の庇を架けよ。降り来るものは――《シルトダッハ》」
頭上に、光の傘が組み上がっていく。
そこへ、魔物の群れが殺到した。
鉤爪が、牙が、傘に叩きつけられる。
だが。
通らなかった。
矢を、あれほどやすやすと通した傘が、魔物の一匹たりとも通さなかった。
魔素を持つものは阻む。
それがこの盾の、本当の仕事だった。
「よし、いまだ! 叩き落とせ!」
ガルズが弓兵に指示を出した。
魔物に向けて、無数の矢が放たれた。
顔、羽、胴体。
至るところに矢を受けた魔物は、次々と落ちていった。
だが、数が多い。
いつまで、これが持つか。
「お、おい! 誰か、手を貸してくれ!」
声がしたほうを見ると、シュタイン隊の一人が倒れていた。
口から泡を吹いて、顔が真っ青。
魔素中毒。
周りを見ると、ほとんどの人間の顔色が悪い。
ゾフィー、エミールも。
「無理をするな、二人とも」
二人は、返事をする余裕すらなかった。
「速く撃ち落としてくれ!」
私は思わず叫んだ。
「やってるだろ! でも、数が――」
その時、西門のほうで、叫び声が響いた。
まさか。
そちらのほうを見ると、シルトの一部が崩れていた。
魔物の一部が、街の中に侵入してきていた。
北門の全員が、そちらに気を取られた。
その瞬間、こちらのシルトが緩んだような感覚があった。
私の体に、魔素が一気に流れ込んでくる。
指先が、痺れる。
「ああ、終わりだ」
「そんな……」
兵士たちの声が漏れた。
「くっ、まだだ!」
私は叫んだ。
「まだ終わってない! あっちは仲間に任せ、我々はここを死守するぞ!」
西門が突破されたとはいえ、まだ完全に崩壊したわけじゃない。
まだ、終わりじゃない。
「そうだ! 後ろには予備隊がいる! 踏ん張れ!」
ガルズが周りの兵士に声をかけた。
兵士たちの目に、すこし光が戻った。
どれほど、時間が経ったのだろう。
魔物の群れは、尽きなかった。
壁の上も平野も、同じだった。
ゼーラントも、こちらも、ただ必死に、空から降る災厄を払い続けていた。
もう私も、西門の様子を確認する余裕すらなくなっていた。
「フリード!」
ガルズが叫んだ。
そちらに目をやると、シルトに穴が開いていた。
もう、シュタイン隊の限界が来ていた。
光を失った一角に、魔物がなだれ込む。
悲鳴と共に、隊列が崩れた。
兵士が我先にと、そこから逃げ出した。
押し合い、怒号。
私は咄嗟にその中を、逆走した。
穴の開いた場所に向かって。
そこで私は、体の限界を超えて、シルトダッハを張った。
体中が軋む。
吐き気。
倦怠感。
それらが一気に、私の体を支配した。
それでも、これ以上魔物を入れるわけにはいかなかった。
「フリード!」
ガルズもあの流れを逆走してきた。
「踏ん張れ! ここが崩れたら終わりだぞ!」
「わ、わかっている」
魔物が襲い掛かってきた。
私に襲い掛かる魔物は、ガルズが斬り伏せた。
「へっ、どうしたどうした! こんなもんかよ、クソ魔物どもが!」
「ゆ、油断するな! 足元すくわれるぞ」
「お前こそ、俺のほうばっか気にして、ぶっ倒れるなよ」
「……まだ、大丈夫、だ」
ガルズは、私のほうを見た。
本当に大丈夫かどうか、確認をしたのだろう。
その一瞬が、命取りだった。
一体の魔物が、ガルズの喉元に噛みついた。
血を吹き出すガルズ。
一瞬だった。
魔物はすぐに飛び立ち、ガルズは崩れ落ちた。
呼吸が漏れる音。
悶え苦しむガルズの姿が、目の前にあった。
だが、私に出来ることはなかった。
徐々に動かなくなるガルズを見ながら、私はシルトを張り続けた。
あれだけ仲間から信頼されていたガルズがやられた。
ゼーラントにではない。
突発的に現れた、魔物に。
こんな、こんなことが。
「教官! 後ろ!」
ゾフィーの声が、聞こえた。
振り返ると、魔物。
ガルズの時と同じ、私の喉元を狙って襲い掛かってきた。
ここまで、か。
名誉だったのだろうか。
こうして、誰かのために死ぬことは。
意味があるのだろうか。
「石の牙よ、貫け――」
目の前の魔物に、石の槍が突き刺さった。
一瞬、なにが起こったかわからなかった。
「教官、遅くなりました!」
そこには、後方に下がったはずのティルがいた。
「……休んでいろと言ったはずだ」
「もう十分休みました。教官こそ、すこし休んでください」
そう言ってティルは、シルトダッハを張った。
その背中が、とても大きく見えた。
だが。
「……年寄り扱いするな」
「教官……」
私は、ティルの隣に立った。
ガルズが命がけで守った。
ここで、私が折れるわけにはいかない。
「私も」
「僕も」
ゾフィーとエミールも、そこに加わった。
二人とも、限界のはずだ。
それでも、ここを守るという意志が、その体を動かしていた。
「おいおい。無理すんなって、休んでろよ!」
「まだやれる。ティルにばっか、いい顔させないんだから」
「ぼ、僕だって――」
私は、ガルズの姿を見た。
私の足元に、彼の血が流れてきていた。
そこから、目を離せなかった。
空が白み始めた頃。
群れは、潮が引くように散っていった。
腹が満ちたのか、飽いたのか。
魔物の去っていく空を、誰もが、ただ見送っていた。
街に入り込んだ魔物も、予備部隊が仕留めたらしい。
壁の上には、魔物と人の死体が転がっていた。
向こうも、同じだったろう。
ゼーラントの陣からは、もう、鬨の声も、角笛も聞こえてこない。
攻める気力など、向こうにも残っていないはずだ。
少なくとも、今日は。
奇妙な静けさが、戦場を覆っていた。
昨日まで殺し合っていた両軍が、同じ空を見上げて、ただ息をしている。
私は壁に背を預けて、ずるずると座り込んだ。
目の前に、冷たくなったガルズの姿があった。
「……なあ、ガルズ」
掠れた声しか、出なかった。
「私たちは一体、誰と戦ってるんだろうな」
答えは返ってこない。
行き場のない言葉が、壁の上を彷徨っていた。




