第三十三話 傘のなかで
氷の衝撃は、まだ壁を震わせていた。
その余韻が消えるより先に、敵陣から地鳴りのような雄叫びが上がった。
ゼーラントの大群が、動き出す。
先頭を、大盾を連ねた兵が進む。
その間を、梯子を担いだ兵が走る。
さらに後ろには、弓を構えた兵の列。
黒い波が、城壁へ向かって押し寄せてきた。
「来るぞ! 持ち場につけ!」
ガルズが、剣を抜いて怒鳴った。
ゾフィーが青い顔で、こぶしを握りしめている。
ティルはいつもより、さらに表情を消していた。
エミールは、頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
私は、三人の前に立った。
この壁を、守らなければならない。
敵の隊列の奥でまた、あの青白い光が灯った。
一つではない。
いくつも。
あれが、また来る。
「魔法来るぞ! シュタイン隊!」
私は、ありったけの声で号令した。
近くのシュタイン隊が、いっせいに詠唱を始める。
ゾフィーも、ティルも、それに声を重ねた。
「山は動かず、石の庇を架けよ。降り来るものは――《シルトダッハ》」
目の前に、幾重もの光が、傘のように組み上がっていく。
そこへ、青白い氷の塊が次々と撃ち込まれた。
轟音と共に、傘が震え、白く発光した。
シルトダッハなら防げる。
当然だ。
これはフェルゼンの誇る、盾なのだから。
氷は、その傘に阻まれ、砕け散っていった。
「いいぞ! そのまま保て!」
何度もシルトダッハに阻まれて、敵の魔法での攻撃が、だんだんと緩くなっていった。
ほっと、息をつきかけた。
その時だった。
敵の弓兵が、矢を放った。
黒い雨が、空を覆う。
そして、その矢は――。
シルトダッハの傘を、何事もなかったように通り抜けた。
魔素を持たないからだ。
先ほどまで、我々を守っていた魔法の壁は、矢を一本たりとも止めはしない。
城壁に、矢が降り注いだ。
「伏せろ! 陰に入れ!」
私は叫んだ。
だが、遅かった。
振り返った先に見えたのは、訓練生の一人。
矢を首に受けて、まさに崩れ落ちる瞬間だった。
「トマ!」
ゾフィーが、悲鳴をあげた。
その名前が、とっさに出てこなかった。
私の、教え子のはずなのに。
どんな子だったのか、何も出てこなかった。
ゾフィーが、駆け寄ろうとする。
「動くな! 伏せていろ!」
私はその腕を掴んで、引き戻した。
「弓兵! 撃ち返せ!」
誰かが叫んだ。
すぐ近くで、矢を放つ兵士たち。
それでも、敵の矢は止まらない。
何度も、矢の雨が降ってくる。
ゾフィーは、私の腕の中で震えていた。
倒れた子を、見つめたまま。
その子は、苦痛に歪む顔をしながら死んでいた。
矢の雨が、わずかに途切れた。
今度は、梯子だった。
鉤のついた先端が、次々と胸壁を噛んでいく。
敵兵が、鎧を鳴らしてよじ登ってくる。
「来やがった! 落とせ! 一人も上げるな!」
ガルズが、肩の傷も構わず、登ってきた敵の鎧の隙間を、剣で突き刺した。
返す刃で、別の梯子の敵を蹴落としていた。
とても、怪我人とは思えない動きだった。
私も、壁に取りついた敵に手を向けた。
「石の牙よ、貫け――アースランス」
石の槍が、梯子の男を射抜き、下へ突き落とす。
隣でティルも、詠唱していた。
迫る敵に迷いなく、石の槍を放っている。
藁の的でもない。
山の魔物でもない。
人だ。
だが、今のティルに、躊躇う余裕などなかった。
押し寄せる群れをただ、落とすしかなかった。
ゾフィーも、涙を拭って詠唱を始めた。
震える声で、それでも石の槍を放っている。
この子たちは、撃てた。
人を、殺せてしまった。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
私にはわからなかった。
エミールだけが、動けずにいた。
手をかざしたまま、詠唱の言葉が出てこない。
登ってくる敵と、倒れたトマを交互に見て、固まっている。
「エミール! 無理に撃つな! 俺の後ろにいろ!」
私はそう叫んで、エミールの前に出た。
胸壁を乗り越えかけた敵を、アースランスで突き落とす。
せめてこの子にだけは、人を殺させたくなかった。
なぜそう思ったのかはわからない。
トマには、何もしてやれなかったのに。
どれほど、戦い続けただろう。
日が傾きかけた頃、敵の雄叫びが、ようやく遠のいていった。
梯子が外され、黒い波が平野へと退いていく。
一日目が終わった。
壁の上に残ったのは、荒い息と、うめき声と、血の匂いだった。
無事だった者も誰一人、口をきかなかった。
シュタイン隊の中には、膝をついて鼻血を出している者もたくさんいた。
早くも、魔素酔いの症状が出ている。
トマの体は、まだそこにあった。
首に矢が刺さったまま、こちらを見ている。
私はその顔を、見ないようにした。
シルトは、矢を止めない。
二十年、そう教えてきた。
今日それが、目の前の教え子に降りかかった。
この子たちはもう、知ってしまった。
おそらく、他の壁でも同じように、人が死んだのだろう。
クルトは。
ラルフは。
他の教え子たちは。
ここで分かることは、なにもない。
唯一分かるとしたら、この子たちは生き延びた。
私は、ゾフィー、ティル、エミールを見た。
あと、何日。
何日、この子たちの顔を見られるのだろうか。
まだ、戦いは始まったばかりだった。




