第三十二話 光に照らされて
地平に土煙が現れてから、街の空気は張りつめていた。
敵はまだ遠い。
だが、確実に近づいている。
その日私は、クルトとラルフと、詰所の一室にいた。
誰を、どの壁に置くか。
それを決めなければならなかった。
机には、アルトの見取り図が広げられていた。
四方を囲む外壁。
その内側の内門。
ラルフが口を開いた。
「ターニャが嘆いてましたよ。『まだ敵が来てないのに忙しすぎ。こんなんだったら、城壁に配置されるほうがよっぽどまし』って」
「そうか。ターニャらしいな」
治癒術者は、もう持ち場が決まっている。
配置は後方だが、最前線と変わらないくらい、いや、それ以上の激務になるだろう。
「いよいよ、か」
クルトが、地図を見ながら言った。
「ああ、いよいよだ」
私の言葉以降、しばらく誰も口を開かなかった。
「北門は、私が受け持とう」
私は言った。
「おそらくゼーラントの本陣が置かれる方角だ。いちばん厚くしないといけない」
「じゃあ、俺は東を」
クルトが、地図の端を指で叩いた。
「ラルフ、お前は西だ」
「はい。お任せください」
「あとは、訓練生をどう配置するかだが――」
話は、淡々と進んだ。
何年も同じ訓練所で、同じ子供たちを教えてきた三人が、戦場で別々の場所に散る。
生きて会えるかもわからない。
こうして顔を見るのも、今日が最後かもしれない。
そんなことは、誰も口にしなかった。
言えば、現実になってしまう気がした。
子供たちの割り振りが決まった。
個々の力量を考えて、配置をした。
南門に四名、他は五名ずつ送ることになった。
ゾフィーとティル、それとエミールは、私の北門に配置した。
あの三人だけは、手元に置いておきたかった。
理由は、自分でもよくわからなかった。
「フリード教官」
話が終わり、立ち上がったとき、クルトが言った。
「死ぬなよ」
名誉のためだとか、国のためだとか、そういう言葉は一つもなかった。
「ああ、お前もな」
私は、それだけ返した。
クルトは、少しだけ笑って部屋を出ていった。
ラルフも、いつもの調子で手を挙げて続いた。
それきり、三人が同じ部屋に揃うことはもうなかった。
翌日は、北門の持ち場で共に戦う兵士を見ていた。
同じ壁を受け持つ兵士の中に、ガルズがいた。
「よう、フリード。また一緒だな」
ガルズは、まだ肩に布を巻いていた。
「ガルズ。肩は大丈夫なのか?」
「戦が始まったら、痛みなんか吹っ飛ぶさ」
ガルズは怪我をした左肩を叩きながら笑った。
「そういえば、総司令官が言ってたぞ。金を返せってな」
「ちっ。まあこの戦で活躍して、出世払いするしかないな」
「どうせその金で、酒と女を買うんだろ?」
「バレちまったか」
ガルズは笑った。
その笑いにつられて、私も笑った。
不思議なものだ。
こいつと知り合ったのは、つい最近のことなのに、何年も共に過ごしたかのように感じる。
ガルズがそういう空気を作るのが上手いのか、それとも共に死線をくぐり抜けたということがそうさせているのか。
いずれにしても、こいつは信頼に足る男だと思った。
私たちは、持ち場の段取りを確かめ、矢束の位置を直し、油の釜の数を数えた。
やることは、いくらでもあった。
「しかし、あんたも貧乏くじだな」
ガルズが、笑いながら言った。
「たぶんここが一番の激戦地になるぞ。総司令も人が悪い」
「いや、自分で決めたことだ。それを言うなら、お前のほうだろう」
「違いねえ。俺が死んだら、金を回収できないってのにな」
ガルズは、声を上げて笑った。
その軽さが、張りつめた壁の上では、妙にありがたかった。
「心配すんな。数は多いが、しょせん奴らは、ゼーラントだ」
ガルズは、壁の外へ目をやった。
「あいつらには、魔法使いがいねえ。来るのは、矢と梯子と剣だけだ。こっちには、あんたらシュタイン隊がいる。壁の上から、好きなだけぶち込んだらいい」
「……」
「なんだ? ほかに心配ごとでもあんのか?」
「……いや、なんでもない」
相手は人間だ。
ゾフィーも、ティルですら、魔法を人に向けて撃つのを躊躇った。
他の子たちは、撃てるのだろうか。
人を、殺せるのだろうか。
翌日の早朝。
街中に、角笛が響いた。
私は、大慌ての兵士たちの波の中を進み、城壁の上に立った。
目の前には、ゼーラントの大群。
ついにアルトの前に、その全容を現した。
外壁の上から見下ろすと、平野が埋まっていた。
旗。
槍の穂先。
鎧の列。
それらが整然と、どこまでも並んでいる。
斥候で見た、あの野営地の雑踏とは、別物だった。
あの時見た数より、明らかに多い。
「お、おい。聞いてた話と違うぞ」
「多すぎる。一万はいるんじゃないか?」
兵士が口々に言った。
私たちが見たのは、せいぜい三千から四千ほど。
別の場所に、まだ軍がいたのか。
目の前に広がるこれは、まるで一つの意思を持った、巨大な獣だ。
ゾフィーが、城壁の縁を強く握りしめていた。
その指が、白くなっている。
敵軍は、アルトを丸ごと包囲した。
それきり、しばらく何も起きなかった。
にらみ合いの時間だけが、過ぎていく。
風が、無数の旗を鳴らす音。
その静けさのほうが、怒号よりも、よほど恐ろしかった。
早く始まってくれ、と、どこかで思っている自分がいた。
この何も起きない時間に、神経が焼き切れそうだった。
しばらくしたころ、騎馬が一頭、こちらに向かってきた。
「弓兵、構え!」
誰かが号令を出した。
騎馬が、門の前で止まった。
「アルト守備隊に告げる。降伏しろ! 降伏したものは殺さない。武装を解除し、門を開け!」
その言葉に、壁の上にはざわめきが起こった。
ヴィクトルの声が、城壁に響き渡った。
「うろたえるな! こやつらの言うことなど、信用するに値しない。現に我々の村を焼き払っている。こやつらの目的は、侵略なのだ!」
騎馬の男が、怯まずに言った。
「諸君らが、この戦いに命を賭ける価値はあるのか? 守っているのは国ではなく、腐敗した貴族どもではないのか? 忠誠とは、強制されるものではない! 自ら生み出されるものだ! 今一度、考えてほしい! 我々は、投降したものを殺さない。約束しよう!」
もう一度、壁の上にざわめきが起こった。
「くっ。弓兵、構えろ!」
ヴィクトルのその言葉に、弓を降ろしかけていた兵士が構えなおした。
それを見て、騎馬は振り返って陣に戻っていった。
また、静けさが戻った。
だが先ほどとは、壁の上の空気が違っていた。
どれほどそうしていただろう。
敵陣の奥で、何かが光った。
青白い、冷たい光だった。
一つではない。
いくつもの光が、一点に固まって、膨れ上がっていく。
あれは――。
背筋が凍った。
私はよく知っている。
あれは、魔法を発動させるときの魔素の光だ。
「魔法だ! 伏せろ!」
咄嗟に叫んだ。
次の瞬間、青白い塊が唸りをあげて、こちらへ飛んできた。
誰かが、とっさにシルトを張った。
薄い光の壁が、宙に生まれる。
だが、遅かった。
そして、足りなかった。
あれほどの魔法を、シルト一枚で止めきれはしない。
氷の塊のようなものは、その壁を紙のように突き破り、城壁の一角に突き刺さった。
轟音。
石が、砕け散った。
胸壁の一部が、丸ごとえぐれて、崩れ落ちていく。
そこに立っていた守備兵が、何人も、瓦礫ごと壁の下へ消えた。
悲鳴。
白い粉塵が、視界を塗りつぶす。
気づけば私は、教え子たちを、壁の陰に引き倒していた。
また、体が勝手に動いていた。
粉塵が、少しずつ晴れていく。
えぐれた城壁から、白い冷気が、もうもうと立ち上っていた。
砕けた石の間に、青く透き通った氷の塊が突き刺さっている。
それは、陽の光を受けて、美しく輝いていた。
こんなもので、人が死んだ。
「……魔法使いが」
誰かが、掠れた声で言った。
「ゼーラントに、魔法使いが、いる……」
誰もが信じて疑わなかったことが、崩れた。
奴らに魔法使いはいない。
そのたった一つの思い込みの上に、この城の守りは組まれていた。
では、あと何が崩れるのか。
斥候で見なかったものが、まだどれだけ隠されているのか。
私は、足元の教え子たちをかばったまま、動けずにいた。
戦いは、もう始まってしまった。




