第三十一話 地平の土煙
朝から、町は慌ただしかった。
宿舎を出ると市街地の通りは、物資を運ぶ人と荷車で埋まっていた。
石材。
矢束。
油の樽。
それらが、城壁のほうへ、ひっきりなしに運ばれていく。
逃げ遅れたのか、逃げ場がないのか、荷をまとめた民が、家の軒先にうずくまっていた。
その喧騒の奥に、もう一つの門が見えた。
内門だ。
外壁の内側に、さらにもう一重、壁と門がある。
その向こうは、貴族や位のある者たちの住む区画らしい。
衛兵が固める内門の奥は、嘘のように静かで、整っていた。
こちら側の喧騒とは、別の世界のようだった。
守られるのは、あの門の奥。
外壁で盾になるのは、私たち。
分かりきったことだ。
外壁の上に出た。
兵たちが、壁の上を補強し、矢束を積み上げている。
壁の上から、平野を見下ろした。
何もなかった。
収穫を終えた畑の雑草が、風に揺れているだけだった。
斥候で見た、あの数えきれない軍は、まだこの平野には現れていない。
だが、来る。
数日のうちに、必ず。
空っぽの平野は、天幕で埋まっているよりも、かえって不気味だった。
持ち場を見て回ると、訓練生たちが壁の一角に固まっていた。
その輪の真ん中に、キリアンがいた。
何かを、熱心に教えているようだった。
私が近づくと、端の一人がこちらに気づいた。
「……あ。おはようございます、教官」
気づいた順に、ぱらぱらと頭が下がる。
礼儀は正しかった。
ただ、それだけだった。
私が「ああ」と返したときには、彼らの目はもう、キリアンに戻っていた。
「キリアンさん、それで、どうするんですか」
訓練所の時とは、まるで声が違った。
「いいか。矢が降ってきたら、まずこの石の陰に伏せろ」
キリアンは、石の切れ目を手で示した。
「シルトで止めようとするな」
その一言に、私は足を止めた。
「お前らも、訓練所で習っただろう。シルトは、魔物や魔法は止める。だが、ただの矢は止められない」
キリアンは、淡々と続けた。
「頭ではわかっていても、本番になると、必ず忘れる。怖くて、とっさに壁を張っちまう。そうして、盾ごと射抜かれて死ぬ。そんな新兵を何人も見てきた」
訓練生たちは、食い入るように聞いていた。
「だから、頭で考えるな。体に覚えさせろ。矢が来たら、伏せろ。いいな」
「はい!」
それは私が、訓練所で嫌というほど言ってきたことだった。
シルトで矢は止められない。
幾度も、繰り返し教えた。
だが、この子たちがこんな顔で聞いていたことは、一度もなかった。
私は、輪の後ろから口を出した。
「……キリアンの言う通りだ。矢が来たら、迷わず伏せろ」
訓練生たちが、振り返った。
そして確かめるように、キリアンのほうを見た。
キリアンが、小さく頷いてみせる。
それでようやく、彼らは私の言葉に頷いた。
私が二十年かけて教えてきたものより、この男の頷き一つのほうが重かった。
分かっていた。
キリアンは正しい。
子供たちが正しいほうを信じるのは、当たり前のことだ。
それでも胸の奥が、わずかに軋んだ。
私は持ち場を離れ、壁沿いを歩いた。
補強を指揮していた兵の一人が、ふと、私を見た。
その胸には、シュタイン隊の紋章があった。
足を止め、ぎこちなく頭を下げる。
「……教官。お久しぶりです」
また、見覚えのある、思い出せない顔だった。
だがこの男は、キリアンとは違った。
皮肉も、懐かしさもない。
言うべきことを言った、というだけの目をしていた。
「元気そうだな」
私が言うと、男は少し考えてから答えた。
「……とりあえず、生きてます」
それだけ言うと、また黙って石を運び始めた。
生きて帰ってきた、数少ない一人。
その顔からは、何もかもが抜け落ちていた。
名誉も、恨みも、昔話も。
ただ、生きている、とだけ。
私が送り出した子供が、数年でこうなる。
訓練所を出た子供たちがどうなるか、私は今まで考えたことがあったのだろうか。
兵たちが食事をしながら、低い声で話していた。
「東のアエミールも、とうとう戦だとよ」
「ロレンテのほうも、もう危ないらしいぜ」
「どこもかしこもだな。逃げる先がねえなこりゃ」
誰かが、短く笑った。
笑うしか、なかったのだろう。
戦は、ここだけのものではないみたいだ。
世界のあちこちで、同じように人が壁を築き、同じように人が死んでいる。
アルトを出たあの避難民たちは、いったいどこへ逃げるつもりだったのか。
逃げる先など、どこにもないのに。
昼を過ぎた頃、ヴィクトルが壁の上を回ってきた。
持ち場の割り当てを、自ら確かめているようだった。
「ヴィクトル総司令」
私が挨拶をしたら、ヴィクトルは軽く手を挙げた。
「フリード教官。昨日は助かった。君のおかげで、ガルズに貸した金を回収できる」
「金、ですか?」
「どうしようもない馬鹿なんだあいつは。女と酒で借金作って、そのために兵士になって、また女と酒。まったく、しょうがないやつだ」
「そんな感じには見えませんでしたけど」
「任務中はな。だが、そこが気に入っている」
ヴィクトルは、外を見た。
「シュタイン隊は、東西南北、すべてに均等に配置する」
ヴィクトルは続けた。
「敵に術者がいれば、まずそいつらの魔法が飛んでくる。それを防げ。君の教え子も、シルトダッハは使えるのだろう?」
「はい、彼らも分散させるのですか?」
ヴィクトルが、私のほうに向きなおった。
「シュタイン隊は貴重だ。各城壁に配置したい。不安なのはわかるが、ここに来た以上、覚悟はしてくれ」
覚悟。
「……承知しました」
ヴィクトルは内門のほうへ、ちらりと目をやった。
「外壁が破られれば、兵は内門まで退く。あの奥で、縮み上がっている貴族連中を守るためにな」
その声に、吐き捨てるような響きがあった。
「子供を戦場に送って、守るのは貴族の寝床だ。……笑えん話だな」
この人も、送り出す側の人間だった。
日が傾きかけた頃だった。
櫓の上で、兵が何かを叫んだ。
壁の上の全員が、動きを止めた。
私は、平野を見た。
地平の際に、細い土煙が立っていた。
まだ、豆粒ほどの。
だが確かに、こちらへ向かって、少しずつ伸びてきていた。
長く空っぽだった平野の果てに、ついにそれが現れた。
来た。
隣でゾフィーが、息を呑むのがわかった。
私は、何も言わなかった。
ただあの土煙が、この壁の前を埋め尽くすまでに、あと何日あるのかを、頭の中で数えていた。




