第三十話 生きて帰れたら
斥候から戻った、その晩だった。
宿舎で装備を下ろしていると、ラルフが顔を出した。
「お疲れ様です、フリード教官」
「ああ、こっちは問題なかったか?」
「はい。慣れないことばかりなので、彼らもだいぶ疲れていたみたいですけど」
「そうか」
「一杯どうですか?」
誘う声は軽かったがその顔は、そうでもなかった。
「近くに、まだ空いている店があるらしいですよ。クルト教官と、ターニャも一緒に」
「……ちょうどいいかもな」
「なにがですか?」
「なんでもない。行こう」
店は本当に、宿舎のすぐ近くにあった。
扉を開けると、熱気と酒と汗の匂いが押し寄せてきた。
兵士で、ごった返している。
卓を叩いて笑う者、肩を組んで歌う者、すでに潰れて倒れている者。
明日をも知れぬ身だからこそ、今夜は飲む。
そういう奴らばかりだった。
この部屋にいるほとんどは、ひと月のうちに死ぬのかもしれない。
ふと、そう思った。
隅の卓に、クルトとターニャが先に座っていた。
ターニャの前には、もう空の杯がいくつも転がっている。
「おや、フリード教官。すごい活躍だったらしいじゃないですか。英雄の凱旋ですね」
ターニャが、赤い顔で言った。
「飲み過ぎだぞ、ターニャ」
私は、その向かいに腰を下ろした。
ラルフが、全員に酒を注いでいく。
「とりあえず、無事の帰還に」
杯が、ぶつかった。
安い酒だ。
ただ喉を焼いて、腹の底に落ちていく。
味なんて、ここの誰も気にしていない。
私も、今日はそれでよかった。
こんなものを飲むのも、ずいぶん久しぶりだ。
しばらくは、斥候の話になった。
焼けた村のこと。
数えきれない敵軍のこと。
クルトは、黙って聞いていた。
ターニャは聞きながらも、手を止めず酒を飲んでいた。
「おい、ターニャ。今日は特に速いな。酒は逃げんぞ」
私が言うと、彼女は笑った。
「いいんですよ。今のうちに飲んでおかないと」
その声は、まだ笑っていた。
「どうせもうすぐ、ここの連中が、片っ端から担ぎ込まれるんですから。腕がちぎれた、腹が裂けた、ってね」
治癒の術者は、戦が始まれば、休む間もない。
彼女はそれを知っていて、飲んでいた。
「……そうだな。飲めるうちに、飲んでおけ」
「みなさんも」
ターニャが、私の杯に酒を注いだ。
「みなさんは……」
ラルフが、杯を置いて言った。
「生きて帰れたら、何がしたいですか?」
誰にともなく、放られた言葉だった。
「俺は故郷に帰って、畑でもやりたいです。畑が終わったら、釣りをしながら酒を飲んで、夜には家族みんなで食事をする」
ラルフは、そう言って笑った。
「いいね、それ」
「ターニャは?」
「私? そうだなあ」
ターニャは、少し考えた。
「戦のない町で、小さな治療院でも開こうかな。腕のいい術者だって、評判になって」
そう言って、また一口飲んだ。
「悪くないな、それは」
クルトが、ぼそりと言った。
珍しく、水を差さなかった。
二十年、私はこの手の話を、何度も聞いてきた。
送り出す前の晩に、子供たちが同じようなことを言う。
帰ったら何をする。
どこそこの誰に会う。
そしてその多くは、帰ってこなかった。
私は、それを口にはしなかった。
ただ、杯の中の酒を見ていた。
誰も、訓練所に帰る話をしなかった。
「フリード教官は、どうなんです?」
ラルフが、こちらを向いた。
「私は……」
言葉に詰まった。
帰ったら、何がしたい。
訓練所に戻って、また次の子供たちを迎える。
それ以外の何かを、私は持っていなかった。
「……今までと変わらないだろうな」
結局、それしか出てこなかった。
「相変わらず、面白みのない人だ」
ラルフが笑った。
私も、少しだけ笑った。
「そういえば」
クルトが口を開いた。
「昼間、昔の教え子に会ったぞ。お前が斥候に出ている間にな」
「ほう」
「アルトの守備隊に紛れていた。四年ほど前に、訓練所を出た男だ」
クルトは、杯を傾けた。
「あいつと訓練所で一緒だった奴らは、ほとんどが前線に送られたそうだ。生き残っているのは、数えるほどらしい」
数えるほど。
四年前、私もその子たちを、同じように送り出したはずだった。
私はその顔を、一人も思い出せなかった。
「ちょうど、噂をすれば、だ」
クルトが、入り口のほうへ手を振った。
一人の男が、人をかき分けてこちらへ来た。
背が高く、右の眉のあたりに古い傷があった。
兵士の目をしていた。
乾いて、底の見えない目だ。
「クルト教官。やっぱり、ここでしたか」
「おう。まあ、座れよ」
男は私を見て、少し足を止めた。
「……フリード教官。お久しぶりです」
私は、その顔を見た。
見覚えがあるような。
ないような。
「四年前にお世話になりました。キリアンです」
「……ああ、久しぶりだな」
名前を聞いて、ようやく、おぼろげに像が結んだ。
いや、本当に結んだのかどうかも怪しかった。
四年の間に、何人の子供を送り出しただろう。
その一人ひとりの顔など、もう残ってはいなかった。
「……たくましくなったな」
「とんでもないです」
当たり障りのないことを、私は言った。
それ以外に、言えることがなかった。
キリアンは、空いた席に座った。
ラルフが酒を注いだが、一口しか飲まなかった。
「お前も、ここに回されたのか?」
私が聞くと、キリアンは頷いた。
「ええ。あれからあちこち回されましたよ。どこも大変でした」
「そうか」
「教官方は、相変わらずですね」
キリアンは、みんなを見てすこし笑った。
「今日はなんの話を?」
「ああ、生きて帰れたら何がしたいかを話してたんだ」
ラルフが答えた。
「昔、俺たちも、同じことを話しました。卒業の前の晩に」
その口調に、懐かしむような響きはなかった。
「あの晩、同じ食堂にいた連中は、もうほとんど残っていません」
店の喧騒が、少しだけ遠くなった気がした。
「キリアン」
私は、言いかけた。
「お前たちは、立派に――」
「ええ」
キリアンは、私の言葉に先回りして頷いた。
「……そうですね。教官」
それだけだった。
否定もしなかった。
反論もしなかった。
ただ、私の言葉を受け取らずに置いた。
名誉ある、という言葉が宙に浮いたまま、どこにも着地しなかった。
私は、杯に口をつけた。
足元が、わずかにぐらついた気がした。
気のせいだ。
そう思うことにした。
「教官。一つ、覚えておいてください」
キリアンが言った。
教わった側が、教えた側にそう言った。
「教わったことは、ほとんど役に立ちませんでした」
その声に、恨みはなかった。
ただ、事実を報告しているだけだった。
「教わった通りに隊列を組んで、教わった通りに詠唱して。そういう奴から、先に死にました」
キリアンは、傷のある眉を触った。
「俺は、教わったことを全部捨てたから、生き残れました」
私は、何も言えなかった。
二十年、私が胸を張って教えてきたものを、この男は捨てて生き延びた。
そして、捨てなかった子供たちは死んだ。
「おい、辛気臭い話はよせよ」
ラルフが割って入った。
「せっかくの酒が、まずくなる」
「ここの酒、もともとそんなに美味くないでしょ」
「たしかにな」
キリアンは少しだけ、顔を緩めた。
話はまた、どうということのない方向へ流れていった。
明日の天気のこと。
どこそこの酒がうまい、まずい。
その合間にふと、キリアンが言った。
「そういえば。戦場ではぐれた新兵がいましてね」
誰に言うでもない、呟きだった。
「訓練所から来た、若い奴です。なんでも、二カ月で戦地に送られたみたいで。可哀想な奴でした」
私は、杯を持つ手を止めた。
「名前は?」
「ヴィリーです」
ヴィリー。
私はその名を、頭の中で繰り返した。
何も、浮かんでこなかった。
顔も。
声も。
どんな子供だったのかも。
「……覚えて、いないな」
正直に、そう言うしかなかった。
「まあ、そうでしょうね」
キリアンは、気を悪くするでもなく頷いた。
「何百人といるんだ。一人ひとり、覚えちゃいられませんよね」
顔を見れば、思い出すかもしれない。
ふと、そう思った。
だがその顔を、私が見ることは、もうないのだろう。
はぐれた、とキリアンは言った。
戦場ではぐれた新兵が、どうなるか。
それ以上は聞かなかった。
キリアンも、言わなかった。
店を出ると、夜風が火照った体にちょうどよかった。
空はよく晴れていた。
星が、嫌になるほど出ている。
「もうすぐだな」
クルトが、空を見上げて言った。
誰も答えなかった。
私は、城壁のほうを見た。
夜の中で、黒い影になってそびえ立っていた。
あの壁の上に、もうすぐ十九人の子供が立つ。
私が、顔も思い出せないまま送り出してきた、数えきれない子供たちと同じように。




