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幻のなかで 〜名誉を教えた男は、送り出した教え子の顔を一つも覚えていない〜  作者: 星喰ゆう
第一章 マチルダ

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第三話 太陽が照らすもの

 黒い影が、森からあふれ出してくる。


 狼のような魔物。

 鳥のような魔物が横切る。


 月明かりの中で、赤い目だけが光っていた。


 匂いが、風に乗って届いた。


 濡れた獣と、腐った肉を混ぜたような匂い。


 それを嗅いだ瞬間、体が芯から強張った。


 頭で考えるより先に、足の裏が地面に張りついて動かなくなった。


 私は動けなかった。

 声も出なかった。


 ただ、それを見ていた。


 群れはまっすぐに、斜面を下ってくるゼーラントの兵へ向かっていった。


 人と魔物が、ぶつかった。


 戦場に響いていた声は、さっきとは違う種類の音に変わった。


 殺し合いの怒号でなく、喰われる者の悲鳴だった。


 ゼーラントの隊列が崩れる。


 必死に応戦してるのが見える。


 だが、止まらない。

 一体倒す間に、三体が兵に食らいついていく。


 目の前で動くものに、ただ、群がっていく。

 掲げられていた青い旗が、血の色に染まって、斜面に倒れた。


 旗を持っていた兵士ごと、黒い波に飲まれた。


 周りの兵士は、歓声を上げていた。

 まるで、勝利の雄叫びをあげるかのように。


「ざまあみろ!」


 隣で、アメリーが言った。


 笑ってはいなかった。

 でもその声には、隠しきれない何かがあった。


「この土地をなめるからだよ。数を揃えればなんとかなると思うなよ」


 私は、その光景をただ見ていた。


 助けなくていいのか。

 敵とはいえ、人が喰われている。


 そう思った自分を、すぐに恥じた。


 あれは、私たちを殺しに来た連中だ。


 ……でも。


 続きを、考える暇はなかった。


 群れの一部が、こちらを向いた。

 まだまだ足りない、というように。


 黒いものが、砦のほうへ流れてくる。


「う、うわああ。来やがった!」

「くっ。弓兵! 放て!」


 弓兵が一斉に矢を放った。


 魔物には当たっている。

 当たっているはずなのに、止まらない。


 まるで、痛みを知らないみたいに、矢が刺さったまま走ってくる。


「シュタイン隊! 出番だよ!」


 アメリーが、叫んだ。


 その声で、砦のあちこちから詠唱が聞こえた。 


 ここにいるシュタイン隊なら、誰でも知っている詠唱。


 この魔法を発動できなければ、訓練学校を卒業できない。

 シュタイン隊にはなれない。


 私の中にも、その詠唱が刻まれている。


 大きく息を吸って、みんなに続いた。


「山は動かず、岩は退かぬ。我らが頭上に、石の庇を架けよ。降り来るものは、羽も火も、この軒の下で朽ちよ――《シルトダッハ》」


 詠唱が重なり、砦全体に魔法の傘が広がった。


 シルトとは違い、この魔法は数人で同時に発動することで、初めて形となる。


 大量の魔素を吸い込むから、周りと分担して、魔素を吸い込みすぎないようにする。


 考えるな。

 呼吸を合わせることに集中しろ。


 教官の声が、頭に響いた気がした。



 最初の一体が、結界にぶつかった。


 弾かれた。


 その衝撃が、結界全体を震わせた。


 骨の芯が、鳴るような感触。

 それと同時に襲ってくる、強烈な疲労感。


 訓練学校の時とは違う。


 初めて、何かを守った。


 これが。

 これが、私たちの仕事だった。


 次々と、シルトダッハに弾かれる魔物たち。

 これがある限り、魔物は中には入ってこられない。



 どれくらい経っただろう。

 もうわからない。


 結界は依然として、魔物の進行を阻んでいる。


「マチルダ! 薄くなってるよ! 頑張って!」


 アメリーの声。


 その声で気づいた。

 指先の感覚がなくなってきていた。

 それに、たぶん鼻血も出ている。


「お、おい。大丈夫か?」


 隣から、兵士が声をかけてきた。

 心配そうに、私を見ている。


 その瞬間、集中の糸がプツリと切れた。


 私の目の前の結界が、薄くなった。


 結界の裂け目から、赤い目が私を見ていた。


 目が合った瞬間、体が固まった。


 息を吸うことすら、忘れていた。


 ――駄目だ。


 声が出ない。


 死ぬ。


 誰か。



 その時、私の前に、何かが飛び込んできた。


「見えざる壁よ、阻め――シルト!」


 マルコだった。


 顔が、真っ白だった。


 それでも震える声で、詠唱を最後まで言い切った。


 シルトが、シルトダッハの裂け目に張られた。


 魔物たちは、マルコのシルトに阻まれている。


「そこ! 援護してやって!」


 アメリーが出した指示で、他のシュタイン隊の人が、結界を張りなおしてくれた。


 マルコがその瞬間、膝をついた。


「マルコ!」


 私は、マルコに駆け寄った。

 さっきまで、体が動かなかったのに。


「マルコ! 大丈夫?」

「……あ、ああ。お前こそ大丈夫か?」

「うん。ありがとう」


 マルコは、私を見なかった。

 責めもしなかった。


 ただ私には、その横顔を見ていることしかできなかった。


 私は動けなかった。


 選ばれた人間のはずが。

 替えの効かない戦力のはずが。


 その時、マルコが擦れた声を出した。


「……っ! ゲルナーさん!」


 マルコの視線の先を見ると、少し先のほうで、ゲルナーが膝をついて血を吐いていた。


 結界を張っていない。


 魔素酔いだ。

 訓練学校で何度も見た、あの症状。


 吸い込みすぎて、体が動かなくなっている。


 でもあの時は、休めば治った。


 教官がすぐに止めてくれた。


 ここには休む時間も、止めてくれる者もいなかった。


 結界の裂け目から、黒いものが、ゲルナーへ向かっていく。


 彼は、逃げなかった。

 逃げられなかったのだ。


 手を上げようとして、その手が震えるだけだった。


 怖いもの知らずの、あの人が。

 私たちを引っ張ってくれた、あの人が。


 私は、走らなかった。

 走れなかった。

 足が、地面に縫いつけられていた。


 アメリーが走った。


 迷いはなかった。


 魔物とゲルナーの間に割り込んで、シルトを発動した。


 その結界に弾かれて倒れた魔物に、周りの兵士たちが一斉に襲い掛かった。


 すごい連携だ、と思った。

 これが、この土地で何年も戦ってきた人たちの戦い方なんだ。


 それでも、アメリーの息が上がっている。

 顔色も、良くはない。


 それでも、彼女は周りに指示を飛ばした。


「東がそろそろ限界みたい。何人か連れて応援に行ってあげて!」

「了解です! ここは大丈夫ですか?」

「西から応援を回すから問題ない。行って!」


 兵士たちは素早く移動を開始した。


「ほら、立ちなゲルナー。朝まで生きていたいならね」


 アメリーが、ゲルナーの襟を掴んで、陣の奥へ引きずっていった。

 ゲルナーの足が、地面を力なく擦っていた。


「マチルダ! あんたもマルコを連れてきて!」

「……え、そんな……まだ、おれ――」

「声が出てないよマルコ! そんなんで何が出来るの? 足手まといだから、下がってて!」


 アメリーの言葉は、私の胸にも刺さった。


 たぶん、私も足手まといなんだ。


 訓練学校では、逸材とまで言われていた。

 これなら十分通用する、と。


 なにも出来なかった。


 この紋章をつけているのに、何一つ。


 私は、マルコを肩に抱えながら、陣の奥に下がった。



 それから私は、ゲルナーさんの額に濡れた布を当てながら、みんなが戦っている所を見ていた。


 誰かが、私の分まで、結界を張っていた。


 結界が波打って、怒号が飛ぶ。

 その繰り返し。


 しばらくすると、シュタイン隊の人たちが、何人かこちらに運ばれてきた。


 顔は紫色になり、口からは泡を吹いている。


「だ、大丈夫ですか?」


 私は、その一人に駆け寄った。


「魔素中毒だ。こうなったら、こちらが出来ることはない。祈ることくらいしかな」

「そ、そんな……」


 兵士がその人を、奥へ連れて行った。



 やがて丘の向こうで、角笛が鳴った。

 さっきとは、違う音だった。


 ゼーラント兵が、退いていく。


 人と魔物、二つの敵を相手には出来なかったのだろう。


 崩れた列が、斜面を上って消えていった。


 私たちには、少なくとも壁があった。

 向こうには、それがなかった。


 同じ夜を、同じ月の下で戦って、生き死にを分けたのはたぶん、そんな些細なことだけだった。


 魔物も、いつのまにか数を減らしていた。


 死体に群がっている。

 人の死体に。


 敵も味方も関係なく。


 東の空が白み始めていた。


 光が、砦を端から照らしていく。


 それを待っていたように、群れは森の暗がりへ引いていった。


 着任した時に、私に敬礼してくれた顔が、いくつも転がっていた。


 この人たちの名前も知らなかった。


 その一人がまだ、剣を握っていた。

 握ったまま、動かなくなっていた。


 マルコが、私の隣に座った。


 何も言わなかった。


 ただ震える手で、私の手を握ってきた。


 私の手も震えていた。


 二人とも、朝の光が砦全体を包むまで、その震えは止まらなかった。


 胸の紋章が、朝の光に鈍く光った。


 あんなに磨いた、鉄の紋章。


 泥と返り血で汚れていた。


 拭こうとして、やめた。


 拭く資格があるとは思えなかった。


 選ばれた人間。


 私は一晩、何も出来ないまま朝を迎えた。


 何も出来なかった私が生きて、朝の光を浴びている。



 アメリーが、私たちの前に立った。


「よく、生き延びたね。とりあえずは上出来だ」


 労いの言葉のはずだった。


 でも私は、答える言葉を持たなかった。

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