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幻のなかで 〜名誉を教えた男は、送り出した教え子の顔を一つも覚えていない〜  作者: 星喰ゆう
第三章 フリード

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第二十六話 流れに逆らって

 出発の朝。


 今日もひどい霧だ。


 初めてこの子たちを迎えた日も、こんな霧だった気がする。


 中庭に、十九人が並んでいる。


 荷物を背負い、体に馴染まない軍服を着て、全員の顔が強張っていた。


 今にも吐きそうな顔をしている子。

 落ち着きがなく、荷物の紐を何度も結び直している子。

 周りをきょろきょろと見ている子。


 訓練の時とはまったく違う緊張感が、訓練所を包み込んでいた。


 私は、訓練生の前に立った。


「これより、我々はアルトへ向かう」


 声を張った。


「諸君も知っていると思うが、ゼーラントはハレンを焼いた。次に奴らが狙うのは、首都アルトだ。それがどういうことかわかるか?」


 私は続けた。


「アルトが落ちれば、フェルゼンという国が、この世界から消え失せる。我々の故郷がだ」


 訓練生の目が、私を見ている。


「村々は蹂躙され、民は奴隷にされるか、殺されるだろう」


 その場の全員が、息をのんだ。


「諸君らは、過酷な訓練を突破した、正真正銘のシュタイン隊。フェルゼンの盾だ。君たちに戦う意志がある限り、このフェルゼンは落ちはしない」


 言い慣れた言葉。

 二十年、送り出すたびに繰り返してきた言葉は、初めて形を変えた。


「……シュタイン隊。我々シュタイン隊こそが、国を照らす守護者なのだ」


 自分でも、いつもより大きな声を出したとわかった。


「名誉あるシュタイン隊の名を背負う諸君らが、唯一フェルゼンを救える希望なのだ」


 彼らの表情が、少し変わったのがわかった。


 そして私は、最後の言葉を口にした。


「恐れることはない。背中は私が預かる。侵略者どもを、蹴散らしに行くぞ。準備は出来ているな!」

「はい!」


 訓練生たちの目に、炎が宿ったのが見えた。


 恐ろしい。

 逃げ出したい。

 死にたくない。


 そんな感情を押し殺して、ここにいる子供たちは、国のため、誰かのため、戦場に向かう。



 出発前に荷物の確認をしている最中、クルトがニコのそばにしゃがんでいた。


 列に並ばず、荷物を抱えたまま、動けずにいる。


「どうした」


 クルトが、低く声をかけた。


「怖いか?」


 ニコは、俯いたまま頷いた。


「そりゃそうだな。当然だ」


 クルトは、あっさりとそう言った。


「僕……何のために行くのか、わからないんです」


 ニコの声は、掠れていた。


「故郷はもう、なくなりました。両親も、どうなったか……。今さら僕が、何を守れっていうんですか」


 声が、途中で詰まった。


 周りの訓練生も、聞こえないふりをしながら、耳だけをそちらに向けている。


 私も、少し離れた場所で、それを聞いていた。


 先日、私がこの子についた嘘を思い出した。


 民間人は逃げられただろう、と。


 あれは、この子を楽にするための嘘だったのか。


 それとも、自分が楽になるための嘘だったのか。


 今となっては、よく分からなかった。


 クルトは、しばらく黙っていた。


 私のように、名誉のためだ、とは言わなかった。


 国のためだ、とも言わなかった。


「……俺にも、わからん」


 クルトはそう言った。


「何のためかなんて、俺にもわからん。理由なんて、どこにもないのかもな」


 ニコが、顔を上げた。


「だがな」


 クルトは、その肩に手を置いた。


「死ぬことは許さない。生きろ。例え、泥水をすすることになっても、国がなくなろうとも、お前たちの命のほうが大事だ。たぶん、俺が戦場に行く理由は、それだ」


 ニコは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく頷くと、荷物を背負い直して、立ち上がった。


 立派な言葉は、一つもなかった。


 それでもあの子は、自分の足で列についた。


 私が二十年名誉を説いても、できなかったことだった。



 出発の間際、一人の子が手を挙げた。


「フリード教官。シュタイン隊には、紋章が授けられると聞いたのですが……」


 シュタイン隊の証。


 本来なら卒業の日に、一人ずつ授けられるものだ。


 卒業する訓練生の胸に、あの紋章をつける時は、いつでも胸が熱くなる。


 だが、この子たちの分は、まだ届いていない。


 前回送り出した訓練生同様、急な出発に、何もかもが追いついていなかった。


「……案ずるな。アルトで用意されているだろう」


 私は、そう答えた。


 本当に授与されるのか、私にもわからなかった。


 また、嘘をついたのかもしれない。


 また、紋章もないシュタイン隊が、戦地に赴く。



 門の前に、学院長とオストが立っていた。


「……無事の帰還を祈ってますよ。フリード教官」


 オストが、いつもの調子で言った。


 だがその手は、固く握られたままだった。


「留守は任せた。オスト教官」


 私は、それだけ返した。


「よし、諸君。出発だ!」


 ラルフが号令を出した。


 隊列が動き出す。


 ラルフを先頭に、霧の中を一列になって山を下りていく。


 この子たちはずっと、厳しい訓練を重ねていた。


 死者も出た。


 それを乗り越えたこの背中は、ここに来たときよりも大きく見えた。



 中腹を過ぎると、霧が晴れ、麓の街道が見えてきた。


 その街道を、荷車を引いた人々が、列をなして歩いていた。


 アルトとは、反対の方向へ。


 山の向こうへ、逃げていく人々だった。


 老人が、子を背負っていた。


 女が下を向きながら、足早に通り過ぎた。


 私たちが、これから守りに行くその民が。


 守られるのを待たずに逃げていく。


 訓練生たちはその列を、黙って見ていた。


 誰も、何も言わなかった。


 私は一度だけ、振り返った。


 訓練所の建物はもう、霧に溶けて見えなかった。


 前に向き直ると、逃げる人々の列が、まだ続いていた。


 老人や子供、女ばかりの列だった。


 私たちはその流れに逆らって、山を下りていった。

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