第二十六話 流れに逆らって
出発の朝。
今日もひどい霧だ。
初めてこの子たちを迎えた日も、こんな霧だった気がする。
中庭に、十九人が並んでいる。
荷物を背負い、体に馴染まない軍服を着て、全員の顔が強張っていた。
今にも吐きそうな顔をしている子。
落ち着きがなく、荷物の紐を何度も結び直している子。
周りをきょろきょろと見ている子。
訓練の時とはまったく違う緊張感が、訓練所を包み込んでいた。
私は、訓練生の前に立った。
「これより、我々はアルトへ向かう」
声を張った。
「諸君も知っていると思うが、ゼーラントはハレンを焼いた。次に奴らが狙うのは、首都アルトだ。それがどういうことかわかるか?」
私は続けた。
「アルトが落ちれば、フェルゼンという国が、この世界から消え失せる。我々の故郷がだ」
訓練生の目が、私を見ている。
「村々は蹂躙され、民は奴隷にされるか、殺されるだろう」
その場の全員が、息をのんだ。
「諸君らは、過酷な訓練を突破した、正真正銘のシュタイン隊。フェルゼンの盾だ。君たちに戦う意志がある限り、このフェルゼンは落ちはしない」
言い慣れた言葉。
二十年、送り出すたびに繰り返してきた言葉は、初めて形を変えた。
「……シュタイン隊。我々シュタイン隊こそが、国を照らす守護者なのだ」
自分でも、いつもより大きな声を出したとわかった。
「名誉あるシュタイン隊の名を背負う諸君らが、唯一フェルゼンを救える希望なのだ」
彼らの表情が、少し変わったのがわかった。
そして私は、最後の言葉を口にした。
「恐れることはない。背中は私が預かる。侵略者どもを、蹴散らしに行くぞ。準備は出来ているな!」
「はい!」
訓練生たちの目に、炎が宿ったのが見えた。
恐ろしい。
逃げ出したい。
死にたくない。
そんな感情を押し殺して、ここにいる子供たちは、国のため、誰かのため、戦場に向かう。
出発前に荷物の確認をしている最中、クルトがニコのそばにしゃがんでいた。
列に並ばず、荷物を抱えたまま、動けずにいる。
「どうした」
クルトが、低く声をかけた。
「怖いか?」
ニコは、俯いたまま頷いた。
「そりゃそうだな。当然だ」
クルトは、あっさりとそう言った。
「僕……何のために行くのか、わからないんです」
ニコの声は、掠れていた。
「故郷はもう、なくなりました。両親も、どうなったか……。今さら僕が、何を守れっていうんですか」
声が、途中で詰まった。
周りの訓練生も、聞こえないふりをしながら、耳だけをそちらに向けている。
私も、少し離れた場所で、それを聞いていた。
先日、私がこの子についた嘘を思い出した。
民間人は逃げられただろう、と。
あれは、この子を楽にするための嘘だったのか。
それとも、自分が楽になるための嘘だったのか。
今となっては、よく分からなかった。
クルトは、しばらく黙っていた。
私のように、名誉のためだ、とは言わなかった。
国のためだ、とも言わなかった。
「……俺にも、わからん」
クルトはそう言った。
「何のためかなんて、俺にもわからん。理由なんて、どこにもないのかもな」
ニコが、顔を上げた。
「だがな」
クルトは、その肩に手を置いた。
「死ぬことは許さない。生きろ。例え、泥水をすすることになっても、国がなくなろうとも、お前たちの命のほうが大事だ。たぶん、俺が戦場に行く理由は、それだ」
ニコは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷くと、荷物を背負い直して、立ち上がった。
立派な言葉は、一つもなかった。
それでもあの子は、自分の足で列についた。
私が二十年名誉を説いても、できなかったことだった。
出発の間際、一人の子が手を挙げた。
「フリード教官。シュタイン隊には、紋章が授けられると聞いたのですが……」
シュタイン隊の証。
本来なら卒業の日に、一人ずつ授けられるものだ。
卒業する訓練生の胸に、あの紋章をつける時は、いつでも胸が熱くなる。
だが、この子たちの分は、まだ届いていない。
前回送り出した訓練生同様、急な出発に、何もかもが追いついていなかった。
「……案ずるな。アルトで用意されているだろう」
私は、そう答えた。
本当に授与されるのか、私にもわからなかった。
また、嘘をついたのかもしれない。
また、紋章もないシュタイン隊が、戦地に赴く。
門の前に、学院長とオストが立っていた。
「……無事の帰還を祈ってますよ。フリード教官」
オストが、いつもの調子で言った。
だがその手は、固く握られたままだった。
「留守は任せた。オスト教官」
私は、それだけ返した。
「よし、諸君。出発だ!」
ラルフが号令を出した。
隊列が動き出す。
ラルフを先頭に、霧の中を一列になって山を下りていく。
この子たちはずっと、厳しい訓練を重ねていた。
死者も出た。
それを乗り越えたこの背中は、ここに来たときよりも大きく見えた。
中腹を過ぎると、霧が晴れ、麓の街道が見えてきた。
その街道を、荷車を引いた人々が、列をなして歩いていた。
アルトとは、反対の方向へ。
山の向こうへ、逃げていく人々だった。
老人が、子を背負っていた。
女が下を向きながら、足早に通り過ぎた。
私たちが、これから守りに行くその民が。
守られるのを待たずに逃げていく。
訓練生たちはその列を、黙って見ていた。
誰も、何も言わなかった。
私は一度だけ、振り返った。
訓練所の建物はもう、霧に溶けて見えなかった。
前に向き直ると、逃げる人々の列が、まだ続いていた。
老人や子供、女ばかりの列だった。
私たちはその流れに逆らって、山を下りていった。




