第二十二話 守ってきたもの
前線で、ことごとく敗走しているとの知らせは、訓練所の空気そのものを変えていた。
誰も口には出さないが、誰もが敵軍の足音に耳を澄ませている。
そんなある日、学院長が教官を集めた。
円卓に、教官が並ぶ。
学院長が、戦況を説明する。
だが、その中身は、驚くほど薄かった。
ゼーラントがどこまで来ているのか。
アルトの防衛準備は、どこまで進んでいるのか。
前線の兵を引いて、首都に温存するのか、それとも。
どれも、「おそらく」「という話だ」「伝わってこない」ばかりだった。
「学院長。もう少し、確かな情報はないんですか?」
私が問うと、学院長は首を振った。
「私にも、詳しいことは下りてこん。我々は、言われたとおりにシュタイン隊を育てる。それだけだ」
ここは、ただの訓練所だ。
戦況を論じたところで、我々にできることは、何一つない。
それでもこうして集まって、分からないなりに言葉を交わす。
そうでもしなければ、落ち着かないのだ。
会議が半ばに差し掛かった頃、扉が開いた。
入ってきたのは、見慣れない男だった。
上等な服を着込み、指には宝石が光っている。
丸々と肥えた体を揺らし、護衛らしき人物を数人従えて入ってくる。
血と汗が滲む訓練所には、寄り付きもしないような人物に見える。
「こ、これはエグモント卿!」
学院長が、慌てて立ち上がった。
我々も、立ち上がって頭を下げる。
「ど、どうしてこのような場所においでで?」
「はっ。なにを言う、ウィスリー。ここの維持費は、主にわしの私財から出しておるのだ。見に来てなにが悪い?」
そう言いながら、エグモント卿と呼ばれた人物は、学院長の肩を叩いた。
「悪いなど、滅相もありません」
エグモント卿は、円卓の上座に、当然のように腰を下ろした。
「して、兵はどれほど仕上がった?」
兵、と彼は言った。
シュタイン隊、ではなく。
「は。現在二十八名、教官たちの努力もあって――」
「二十八名? 少ないな」
エグモント卿は話を遮り、小さく鼻を鳴らした。
「アルトの壁を支えるには、頭数が要る。もっと詰め込めんのか」
「お言葉ですが、エグモント卿。シュタイン隊になるには適性がいります。ですが、ほとんどの若者は戦地へ送り出され、人材を確保できない状態です」
学院長の話の最中、エグモント卿は、護衛の一人にワインを注がせていた。
「もし新たに人材が到着したとしても、敵がアルトに到着する前に育てられるかどうか……」
「訓練を急がせればよいではないか」
「……今も最大限努力はしています。訓練生には、多大な負荷がかかっており、倒れる者も多く、これ以上は死者を出す恐れもあります」
「死者?」
エグモント卿は、心底不思議そうな顔をした。
「ただの兵が訓練中に死んだところで、何の問題がある。代わりなど、いくらでも湧いてこよう。国のために死ねるのだ。むしろ誉れというものだろう」
円卓の端で、クルトが低く息を吐いたのが分かった。
「……恐れながら、エグモント卿」
まずい、と思った。
「彼らは、まだ子供です。親元から引き剥がして、二カ月やそこらで戦場へ送るなど――」
「クルト教官」
私は、遮った。
「卿の御前だ」
クルトは、私を見た。
その目には見たことのない、冷たいものが宿っていた。
だが、口は閉じた。
エグモント卿は、我々のやりとりを、面白くもなさそうに眺めている。
「威勢のいい教官もいたものだ。……まあいい。せいぜい、いい駒を仕上げてくれ」
駒、と彼は言った。
私は、頭を下げた。
この男の言う名誉は、私が二十年、訓練生に説いてきた名誉と、同じもののはずだった。
なのに、自分の耳で聞くと、どうしてこうも薄汚れて聞こえるのか。
エグモント卿はその夜、訓練所の一番良い部屋に泊まった。
夕食には、どこから運ばせたのか、肉とワインが並んだという。
痩せた子供たちが、同じ屋根の下で、薄い粥をすすっているというのに。
翌朝、エグモント卿は訓練を見に来た。
訓練生が中庭で的を撃つのを、満足げに頷いて眺めている。
「よいよい。みな、よい顔をしているではないか」
そして、訓練を終えた者の前に立つと、両手を広げた。
「諸君。諸君は、選ばれた者だ。アルトの、いや、フェルゼンの盾となる、名誉ある者たちだ。胸を張りたまえ」
どこかで聞いた言葉だった。
私が、言い続けてきた言葉だ。
ゾフィーの目が、ぱっと輝くのが見えた。
この子は、この男の言葉すらまっすぐに受け取っている。
ティルは俯いて、唇を歪めていた。
エミールは、ただ立っていた。
昼には、エグモント卿は供を連れて、山を下りていった。
来たときと同じ、豊かな体を揺らして。
私は門の前で頭を下げ、それを見送った。
隣で、クルトも頭を下げていた。
だがその横顔は、見たことのないものだった。
「……あれが」
クルトが、ぽつりと言った。
「あれが、俺たちが守ってきたものか……」
私は答えなかった。
何と答えればいいのか、分からなかったからだ。




