第二十話 与える名誉
訓練が始まって、十日が過ぎた。
いつもなら、この時期はまだ座学ばかりだ。
魔素の仕組みを教え、詠唱を暗記させ、体に障りのない範囲で、少しずつ取り込ませていく。
一年、二年とかけて、ゆっくりと器を広げていくものだ。
急ぐ理由など、どこにもなかった。
だが、今年は違う。
数か月で戦場に出せるようにしろという命令が、何もかもを変えてしまった。
座学はほとんど削った。
朝から晩まで魔素を取り込ませ、詠唱を繰り返させる。
訓練生が休憩しているところに、クルトが魔素の基礎を教えに行く。
休憩の時間すら、基礎の講義にあてた。
食堂で、クルトが話しかけてきた。
「フリード。この数日間、みっちりやってきたが、明らかに訓練生の顔色が悪いぞ」
「わかっている。気の休まる時間がないからな」
「そうか、よかったよ。教え子のことを大事に思ってるんだな。見直した」
「そう私に噛みつくな。一年もしない間に、あの子らは戦場に投入されるかもしれないんだぞ。頑張ってもらうしかない」
「そもそも、なんでこんな状況になっているんだ。国境に配備できる資材も人も、十分にあったはずだ」
「……」
「無能どものおかげで、教え子たちが使い捨てにされている。まったく、名誉を与えるのも虚しくなるよな」
クルトはそう吐き捨て、その場を去った。
私は、なにも言えなかった。
十日で、訓練場の空気は変わった。
初日に目を輝かせていた子たちは、もうほとんどいない。
詠唱の声は日ごとにかすれ、昼を過ぎる頃には、あちこちで子供が膝をついている。
鼻血くらいでは、もう誰も顔を上げない。
倒れた子を踏まないように歩くのにも、私はすっかり慣れてしまった。
血を吐いて動けなくなる者が、毎日何人も出る。
魔素酔いだ。
取り込んだ魔素の量に、体のほうが追いついていない。
軽微であれば、すこし休めば治る。
だが、休ませる時間がない。
「フリード教官」
医務室から出てきたターニャが、私を見つけて足早にやってきた。
白衣の袖が、血で汚れている。
声に、いつもの遠慮がない。
「医務室がもう一杯です。寝かせる場所もありません」
「……そうか」
「そうか? 聞いていましたか?」
ターニャの声が、一段高くなった。
「先ほど、訓練生の一人に、魔素中毒の症状がでました。なんとか回復したからよかったものの、あと少し遅ければ死んでいました。一度中毒になってしまえば、私にはもう、何も出来ないんです」
彼女の言っていることは、正しい。
正しいから、聞いていられない。
「せめて、一日おきに休ませてください。体を戻す時間がなければ、治せるものも治せない」
「上が、それを許さん」
「なら上に言ってください! 現場が保ちません!」
彼女は、私の目をまっすぐ見ていた。
責めているのではない。
ただ事実を、事実として突きつけている。
それが、一番こたえた。
「……最善を尽くしてくれ。ターニャ」
「待ってください! まだ話は終わっていません!」
私は、その足で学院長の部屋へ向かった。
言うだけは、言っておこうと思った。
「このペースでは、死人が出ます」
手に持った書類から顔も上げずに、学院長は言った。
「出たのか?」
「まだです。ですが、時間の問題です」
「ならば、今のままでも大丈夫ということだ」
「学院長。せめて、休養の日を設けてください」
初めて、その顔が上がった。
私の知っている学院長の顔とは少し違って、疲れが顔に出ていた。
「フリード教官。ゼーラントは、もうアルトの喉元まで来ている。魔法を使える人材が、一人でも多く必要なんだ。完璧じゃなくても構わない。とにかく、頭数を増やすんだ」
「しかし、彼らはまだ子供です。鍛える前に、潰れてしまう」
「私とて、好きで言っているのではない」
学院長は、また書類に目を落とした。
「上がそう言っている。不服があるなら、お前がアルトの連中に掛け合ってこい。……私の首も、お前の首も、どうせそう長くはないがな」
私は、それ以上、何も言えなかった。
部屋を出ると、少しだけ、体が軽くなっていた。
言うべきことは言った。
聞き入れられなかったのは、私のせいではない。
そう思うと、不思議と肩の荷が下りた気がした。
気が楽になっている自分に、私は気づかないふりをした。
訓練場に戻ると、また一人膝をついていた。
口のまわりが、赤く濡れている。
「立てるか?」
「……はい」
「無理をするな。だが、休むな」
矛盾している。
分かっていて、私はそう言った。
「慣れだ。じきに、体のほうが追いついてくる」
その言葉を、私はもう何度口にしただろう。
十日のあいだ、倒れる子を見るたびに同じことを言ってきた。
言うたびにその言葉は、少しずつ軽くなっていく気がした。
あの三人は、今日も端のほうに固まっていた。
この十日で、三人の様子も少し変わった。
ティルは、相変わらず痺れる手前で手を止める。
だがその目から、入所したときのような退屈は消えていた。
代わりに、冷えたものが濃くなっている。
エミールは、要領は悪いが、転んでも、何度でも立ち上がる。
そして、ゾフィー。
この十日、彼女は一日も手を抜かなかった。
誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残る。
顔は紙のように白いのに、今日も誰よりも多く取り込もうとしている。
「お前、いい加減にしろよ」
ティルが、小声でゾフィーに言うのが聞こえた。
「そんなに取り込んだら、ぽっくり死んじまうぞ」
「でも教官が、必要としてくれてるから」
「……教官は、誰のことも必要としちゃいない。頭数が要るだけだ」
ゾフィーは、その言葉を聞かなかったふりをして、また魔素を取り込んだ。
私も、そのやりとりを聞かなかったふりをした。
ティルの言うことのほうが正しいと、どこかで分かっていたからだ。
それでも、ゾフィーの熱心さが、私の胸を熱くさせた。
こういう子が、いずれ国を支える。
そう思った、次の瞬間だった。
ゾフィーが血を吐いて、前のめりに倒れた。
「ゾフィー!」
エミールが悲鳴のような声をあげて、駆け寄る。
ティルが、倒れたゾフィーを素早く抱き起こした。
そしてその顔が、私を見上げた。
責めるでも、泣くでもない。
ただ、あの冷めた目で。
「……これが、教官の言う名誉ですか?」
私は、答えを持たなかった。
「ターニャを呼べ!」
そう言うのが、精一杯だった。
その夜、医務室の寝床は、すべて埋まったと聞いた。
ゾフィーは、一命を取り留めたという。
目を覚まして、真っ先に口にしたのは、「訓練に戻れますか」だったらしい。
見込みのある子だ。
そう思おうとして、またあの目が、頭をよぎった。
これが、教官の言う名誉ですか。
窓の外を見ると、訓練場の石畳に、強い雨が打ち付けていた。




