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幻のなかで 〜名誉を教えた男は、送り出した教え子の顔を一つも覚えていない〜  作者: 星喰ゆう
第三章 フリード

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第十八話 準備は出来ているか

「全員、整列!」


 ラルフが訓練生を並ばせた。


 今日はやけに冷える。


 この時期の訓練所の朝は、いつも霧に包まれている。


 山の中腹だから仕方がない。


 石畳の冷えが、靴の底から這い上がってくる。


 私は、中庭に並んだ三十六人の前に立った。


 こうして訓練生を送り出すのは、何度目になるだろう。


 いや、今回はいつもとは違う。


 毎回、多くても十人ほどだ。


 前回は三、いや、四人だったか。


 まあ、いい。


 今回は、ここに来て二カ月の者も、シュタイン隊として出発する。


 異例中の異例だ。


 それだけ戦況が悪化しているということだろう。


 二十年ほどになるか。

 私はここから、同じように訓練生を見送ってきた。


 もう、慣れたものだ。


 鐘が鳴る前に、一度だけ息を整える。


 それから、問う。


 「準備は出来ているか」


 揃った声が返ってきた。


 「はい」


 列のなかに、肩を震わせている子が何人かいる。


 それを私は、彼らの覚悟だと思う。


 怖いのではない。


 身の引き締まる思いが、幼い体には震えとして表れるだけだ。


 そう思うことにすると、その震えは頼もしいものに見えた。


 「山は動かない」


 声を張らなくても、この静かな山ではよく通る。


 「我々はベルク山より大きく、ヴァルデ川より猛々しい」


 訓練生の目に、光のようなものが灯るのが分かる。


 この目を見るために、私はこの仕事を続けてきた。


 覇気のなかった若者が、背筋を伸ばし、一人前の顔になる。


 それを名誉と呼ばずに、何と呼ぶ。


 「背中を預けろ。そして――進め」


 「シュタイン隊が、道を照らす」


 言い終えると、私は一人ずつ顔を見る。


 訓練生の列の間を、ゆっくりと歩く。


 一人ひとりの顔を見てやるのが、送り出す側の礼儀だと思っている。


 しかし、二カ月ほど前に入った連中の名前は、ほとんど覚えていない。


 知らなくて当然だと、自分に言い聞かせる。


 列の端に、見覚えのある顔があった。


 いや、見覚えというほどのものではない。


 前にも、こういう子がいたという程度の。


 筋はいい。


 目の据わり方に、どこか芯がある。


 私はその子の前で足を止めた。


 「準備は出来ているか、マチルダ」


 一拍、間があいた。


 「ロ、ローデです」


 そうか。


 ローデか。


 マチルダは、前回送り出した子だ。


 優秀な人材だった。


 二年で紋章を授けた、数少ない一人だったな。


 あの砦が突破されたと聞いたのは、つい先月のことだった。


 「……準備は出来ているな、ローデ」


 私はそう言ってその子の肩を一度叩き、列を離れた。


 年を取ると、名前がなかなか出てこない。


 それだけのことだ。



 鐘が鳴った。


 門の脇で、ラルフが訓練生を呼ぶ。


「よーし、晴れてシュタイン隊になった諸君。馬車に乗り込め。奥まで詰めろよ。乗れなかったら歩いて行ってもらうからな」


 訓練生は列を崩さぬまま、馬車のほうへと流れていった。


 笑っているやつも見える。


 ラルフはこういうのが得意だ。


 訓練生と近い距離でいて、それでも舐められずに上手く立ち回っている。


 私の苦手なことを、平気でやってのける。



 教え子の背中が、順番に門をくぐっていく。


 最後の一人が消えると、馬車がゆっくりと動き出した。


「いやー、フリード教官。まさか、卒業試験を通ってない連中を、シュタイン隊として送り出さないといけないとは。上はなにを考えているんだか」


 私と同じく魔法の実技を教える、オストが話しかけてきた。


「私に言うな、オスト。上の考えなど、私が知るわけないだろう。今は、彼らが戦場で戦果を残すことを祈るだけだ」

「フリード教官らしいですね。しかし彼らの中には、まだシルト魔法すら――」


 その時、どこからか凱旋歌が聞こえた。


 一人が口ずさみ、つられて声が重なっていく。


 浮かれている、と言ってもいい。


「これは杞憂でしたかね。なんと頼もしい。きっと、彼らは戦場でシュタイン隊の名に恥じない戦いをしてくれることでしょう」

「……そうだな」


 戦へ行くのだという実感が、まだ誰の体にも届いていないのだろう。


 それでいい、と私は思った。


 重さを知らぬまま運ばれていくのが、いちばん幸せなときもある。


 歌声が霧に吸われて、やがて聞こえなくなった。



 「相変わらず、いい演説だな」


 振り向くと、クルトが柱にもたれて立っていた。


 手にした器から、湯気が細く上がっている。


 いつから聞いていたのか、見当もつかない。


 「胸が熱くなったよ。ベルク山より大きく、だったか」

 「茶化すな」

 「褒めてるんだ」


 クルトは器をすすり、顔をしかめた。


 冷めていたらしい。


「シルト魔法も使えない連中が、シュタイン隊とは。世も末だな」

「ゼーラント兵相手なら、ブレイク魔法だけでもなんとかなる。奴らには、魔法がないからな」

「扱えるやつが、まったくいないという訳ではないだろう。それに、俺がしているのは、資格の話だ」

「関係ない。上がシュタイン隊と決めたのなら、彼らはシュタイン隊なんだ」

「その上層部のせいで、手塩にかけた教え子が、無駄に死んでいくんだぞ」


 私は答えなかった。


 クルトは、昔からこうだ。


 誰よりも教え子を大切にして、誰よりも上に悪態をつく。


 宮廷の連中が今ごろ、暖炉の前で酒を回しているあいだに、子供たちが戦場へ送られていく。


 その不公平を、この男は決して飲み込まない。


 「それでも、名誉ある任務だ」


 しばらくして、私はそう言った。


 「シュタイン隊として、送り出してやろう」

 「そうだな」


 クルトは器の底を覗き込むようにして、言った。


 「連中の屋敷を守るために、手塩にかけた教え子が戦地へ送られる――最高の名誉だな」


 その言い方に、胸の奥が締め付けられるような感覚があった。


 だが、それを顔には出さなかった。


 この男の言うことは、だいたい正しい。


 正しいからこそ、聞いていると足もとが崩れそうになる。


 だから私は、いつも途中で耳を閉じることにしている。


 「次の訓練生を迎える準備をするぞ」


 話を変えると、私は霧の向こう、門のほうへ目を戻した。


 クルトはそれ以上は何も言わず、冷めた器を揺らして校舎の奥へ戻っていった。



 その夜は、満月だった。


 窓の外、谷のほうで何かが群れて動く気配がある。


 月の濃い夜は、いつもこうだ。


 魔物は、月明かりを浴びて目を覚ます。


 私はふと、今朝の三十六人を思い出そうとした。


 せめて一人でも、顔を。


 筋のいい子が、一人いた気がする。


 肩を震わせていた子も、確かにいた。


 けれどどの顔も、霧の向こうのように輪郭を結ばない。


 名も――もう、出てこなかった。


 月明かりだけが、誰もいない中庭を、白く照らしていた。

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