第十六話 行先は
「おい、起きろ」
誰かに肩を叩かれて、目が覚めた。
「出発だ」
「え、あ、はい」
勢いのまま荷物を持ち外に出ると、夜明け前だった。
「あー、くそ。朝が早いのはいいけど、この天気は最悪だな」
「まったくだ。こんな雨じゃ、たいした距離歩けねえだろ」
天幕のすぐ外で、兵士たちが話していた。
周りを見ると、ほとんどの兵士が出発の準備をしていた。
僕は、兵士の一人に質問した。
「あの、これからどこに向かうんですか?」
「さあな。そんなことより、早く天幕を片付けろ。すぐに出発の号令がかかるぞ」
「は、はい」
僕たちは、急いで天幕を片付けた。
どこに、何をしに向かうのかも知らされないまま。
「よし、出発だ」
指揮官らしき人が、号令を出した。
あれだけ苦労して掘った穴を越えて、僕たちは進み始めた。
陣地のほとんど、総員四百人くらいが。
歩いた。
ただひたすら歩いた。
丘を下りて、川沿いの道に出て、また別の丘を越えた。
朝が、いつのまにか昼になっていた。
靴の中が、水で満たされている感じ。
ただでさえ行軍は疲れるのに、この雨のせいで、いつもの倍は疲れてしまう。
「すごい雨だね」
ローデが話しかけてきた。
「こんな雨なのに、どこに行くんだろう」
「わからない。でもこの方角は、前線のほうかも」
前線、か。
また、戦うのか。
いや、戦わないわけがないんだ。
僕たちは、そのためにここにいるんだから。
「視界も悪いから気をつけてね、ヴィリー」
「……お互いにな」
肩の荷が、だんだん重くなる。
中身は変わっていないのに、おかしな話だ。
逃げようとしたときには動かなかった足が、今はちゃんと前に出ている。
言われたから、動く。
それだけのことが、こんなに簡単だなんて。
なにも考えなくていいというのは、少し楽だった。
考えることは、もうやめていた。
右の足を出す。
左の足を出す。
それを繰り返しているうちは、余計なことを思い出さずにすむ。
たぶん、みんなも同じだった。
道は、僕たちだけのものではなかった。
別の部隊と合流した。
知らない顔が、いくつもいくつも列に加わってくる。
気がつくと、部隊の人数が倍近くになっていた。
前にも、後ろにも、兵士。
見渡すかぎり、人の背中。
全員がフードを被って、同じ服装。
もう、誰が誰だかわからなくなっていた。
これだけの人間が、みんな同じ方へ歩いている。
ときどき列の中で、誰かが崩れるように座り込んだ。
もう歩けない、という顔で。
でも、列は止まらなかった。
みんなその人をよけて、歩いていくだけだった。
僕も、よけて歩いた。
座り込んだその人が、そのあとどうなったのかは知らない。
振り返らなかったから。
陣地を出て、二日が経った。
雨は、いっこうに止まなかった。
遠くで、低い音がしていた。
地鳴りのような、太鼓のような。
雨の音に紛れて、聞こえたり聞こえなかったりする。
それが近づいているのか、僕たちが近づいているのか。
僕にはわからなかった。
一度だけ、雨が少し弱まった。
そのとき、空のずっと先のほうが、黒く濁っているのが見えた。
雲とは違う、低く垂れこめた汚れた色。
なにかが燃えている。
この雨でも消えないほど、大きな火が。
すぐに雨がまた強くなって、その色は見えなくなった。
ヴィリーという名前も、十六歳だということも、シュタイン隊の新兵だということも。
この流れの中ではたぶん、なんの意味もなかった。
ただ、頭数が一つ。
それだけだった。
不思議と、悲しくはなかった。
ずっと、そう扱われてきた気がしたから。
キリアンさんは、少し前のほうにいた。
ときどき立ち止まって、周りを見ていた。
道の先。
両脇の林の中。
なにかを確かめているような目だった。
僕が見ていることに気づくと、短く言った。
「はぐれるなよ」
それだけだった。
村へ行く前にも、同じようなことを言われた。
あのときよりほんの少しだけ、早口だった。
キリアンさんが、こんな顔をするのを初めて見た。
だからこそ、かえって怖くなった。
昼を過ぎても、空は明るくならなかった。
雨雲のせいで、いまが何時なのかも分からない。
ただ、あたりが少しずつ暗くなっていく。
それでも、列は止まらなかった。
止まれとも、休めとも、誰も言わなかった。
隣で、ローデがまだ黙って歩いていた。
濡れた前髪が、顔に貼りついている。
僕たちはもうずっと、喋っていなかった。
喋る力も、残っていなかった。
やがて道が、林の中へ入っていった。
木が、両脇から迫ってくる。
ただでさえ暗いのに、枝が空を覆ってもっと暗くなった。
雨の音が、葉に遮られて少しだけ小さくなる。
そのかわり、泥を踏む足音と、荒い息だけがやけに近く聞こえた。
列の進みが、だんだん遅くなっていった。
前のほうが、つかえているらしい。
なにか、あったのかもしれない。
そう思った、そのときだった。
前のほうで、声が上がった。
悲鳴のような声。
なにを言っているのかは、雨で聞き取れなかった。
「なんだ? どうしたんだ?」
「さあな。ヘビにでも噛まれた間抜けがいるんじゃないか」
僕の前で、兵士たちが笑っている。
でも僕は、その声の正体を、キリアンさんの言葉を思い出しながら、最悪なほうを考えかけた。
いや、考える暇なんてなかった。
雨に煙る木々の間から、黒い塊がこちらへ向かって溢れ出してきた。
馬なのか、人なのか、それとも魔物なのか。
なにも分からなかった。
分かったときには、もう、すぐそこまで来ていた。
「て、敵襲ー!」




