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幻のなかで 〜名誉を教えた男は、送り出した教え子の顔を一つも覚えていない〜  作者: 星喰ゆう
第二章 ヴィリー

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第十五話 帰る場所

 あの戦いから、数日が経った。


 朝が来て、飯を食って、言われたことをやる。


 夜が来て、眠れたり、眠れなかったりする。


 その繰り返し。



「おい、あれ見ろよ」


 誰かがそう言った。


 その声の先に、こちらへ歩いてくる兵士たちの列があった。


「キリアンさん、あれって?」

「たぶん、補充の兵士だろう」


 数えてみた。


 十、二十……五十人くらい。


「……少ない、ですね」

「だな。戦力を温存してるんだろう。ここで無駄に消耗させないためにな」

「……無駄」


 その列の中に、僕と同じくらいの子が見えた。


 鎧が大きいのか、歩きにくそうだ。


 周りを、きょろきょろと見ている。


 その時、目が合った。


 僕はおもわず目を逸らした。


 なぜかは分からなかった。



 その日の夕食は、いつもより少なかった。


 なんでも、補給の物品が絞られているらしい。


 薄い汁の中に、干し肉のかけらが一つ、沈んでいるだけだった。


「……まさか、訓練所の食事が恋しくなる日が来るなんてな」

「……そう、だね」


 ローデはそれ以上、話さなかった。


 僕もそれ以上、話す気にはなれなかった。


 僕たちは二人とも、あの頃とは違う何かになっていた。


 それがいつからなのか、もう思い出せなかった。


 ただ黙って、味のしない汁を少しずつ口に運んだ。



 夜、天幕の隅で、あの人が起きていた。


 村へ行く前、一人だけ動けずに膝を震わせていた人。


 あの日から、様子がおかしかった。


 昼間もほとんど喋らず、時々、誰もいないほうを見て、口の中で何かを呟いていた。


 その夜、彼は荷物をまとめていた。


 毛布を丸め、乾いた飯を布に包んで、音を立てないように、ゆっくりと。


 僕が見ているのに気づくと、手が止まった。


 しばらく僕と彼は、見つめ合っていた。


 やがて彼が、小さな声で言った。


「……逃げるんだ」


 僕は、なにも言わなかった。


 止めなきゃ、とも思わなかった。


「一緒に、来ないか?」


 彼は、そう言った。


 僕を責めるでも、無理に誘うでもなく、ただ、静かに。


「故郷に、母さんと妹がいるんだ」


 彼は、ぽつりと言った。


「母さんが病気で寝込んでる。もし母さんが死んで、俺も死んだら、妹の面倒を見るやつがいなくなる。だから、帰らないと」


 それは、帰る場所がある人の言葉だった。


 僕には、それがなかった。


 逃げる。


 その言葉が僕の中に、すとんと落ちた。


 いやだ、とは思わなかった。


 情けないとも、思わなかった。


 むしろ――行きたい、と思った。


 こんなところ、僕だっていたくない。


 帰りたい場所があるわけでもないのに、それでも、ここではないどこかへ行きたかった。


 なのに。


 足が動かなかった。


 なぜだろう。


 名誉のためだなんて、もう思っていない。


 選ばれた人間だなんて、これっぽっちも思っていない。


 あんな言葉はとっくに、僕の中で死んでいた。


 それなのに、体だけがまだ、この場所に縛りつけられていた。


 まるで、頭とは別のどこかで「動くな」と命じているみたいだった。


 彼は、しばらく僕を見ていた。


 それから、小さく笑った。


 諦めたような、でも、責めてはいない笑い方だった。


「……そっか」


 それだけ言って、彼は天幕を出ていった。


 闇の中へ、足音が消えていく。


 止める者は、誰もいなかった。


 僕は、その足音が完全に聞こえなくなるまで、じっと座っていた。


 天幕の中で聞こえていたのは、誰かの寝息だけだった。



 朝になっても、彼が戻ってくることはなかった。


 誰も、探しに行かなかった。


 誰も、彼の名前を口にしなかった。


 まるで、最初からいなかったみたいに。


 そもそも、あの人の名前を、僕は聞いたことがあったのだろうか。


 思い出せなかった。


「……あの人、探さないんですか」


 僕が聞くと、キリアンさんは手を止めなかった。


「探してどうする。連れ戻して、無理やり戦わせるのか?」

「……それは」


 それきり、なにも言わなかった。


 僕は少しだけ、彼が羨ましかった。


 逃げられた、ということが。


 いや、逃げられたというより。


 足が動いた、ということが。



 その日の午後、伝令が来た。


 キリアンさんたち古参の兵士が、天幕の奥に呼ばれていった。


 何を話しているのかは聞こえなかった。


 でも、出てきたキリアンさんの顔を見れば、いい話でないことは分かった。


 その夜、荷物をまとめておけと言われた。


 どこへ行くとも、いつ発つとも言われなかった。


 ただ、まとめておけ、と。


 ここよりも前線か、もしくは後退をして味方と合流するのか。


 どちらにしても、同じだ。


 行った先に待っているものは、たぶん変わらない。



 僕は、荷物をまとめた。


 彼が夜逃げの支度をしていたのと、同じように。


 違うのは、彼は戦場ではないどこかへ行き、僕は言われた戦場へ行く、ということだけだった。


 荷物をまとめ終えた手を、僕はぼんやりと見た。


 命令が出たから、荷物をまとめた。


 昨日の夜は、出来なかったのに。


 もう、ここの匂いにも慣れてしまった。

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