第十二話 静かな気配
今日の天気は悪い。
昨日の夜が嘘みたいに、どんよりとした雲が流れてきた。
そのせいで、すこし肌寒い。
そんな中でも、僕たちは穴を掘り続けた。
昨日と同じ場所を、昨日よりも深く。
手のひらの皮はもう半分めくれていて、クワの柄を握るたびに、ひりひりと痛んだ。
手を止めると、キリアンさんの言葉が戻ってくる。
なんのために。
いくら考えても、答えは出てこなかった。
家族のためと、キリアンさんは言っていた。
僕にはそういう、はっきりしたものがなかった。
街でローデが、応募所に並んでいるのをみて、なんとなく気になった。
よく分からなかったけど、適性があると言われて、訓練所に入った。
そこでは、これは名誉ある仕事だと言われて、なんとなくその気になった。
それだけだった。
「ヴィリー」
ローデが、隣で手を止めていた。
「どうしたの? さっきから手が止まってるけど」
「……そんな、上官みたいなこと言うのはやめてくれよ」
「ごめんね。でも本当にどうしたの?」
「こんな穴掘りばっかだとは思わなかったよ。シュタイン隊って。穴掘り隊にでも、名前変えたほうがいいんじゃないか?」
「そんなこと言わないの。今は大変だけど、これが後で、私たちの命を助けてくれるかもしれないよ」
「命を助けるったって、敵なんてどこにもいないぞ。どうせ、前線の部隊が全部やっつけるだろ」
「それは……」
ローデは少しだけ下を向いた。
その顔も、少し疲れて見えた。
「どうした? 眠れなかったの?」
「……うん。あんまりね。ヴィリーもでしょ?」
「……ちょっと考えごとしてて」
「考えごと?」
その時、ローデと目が合った。
「ローデはさ、なんでシュタイン隊に入ろうと思ったの?」
「……なんでって、それは――」
その時、陣が急に騒がしくなった。
一頭の馬が、土煙を上げて陣に駆け込んできた。
乗っていた兵士は、鞍の上で半分崩れ落ちながら、それでも何かを叫んでいた。
「む、村が……っ、麓の村が、襲われてます!」
その一言で、陣の空気が、音を立てて変わった。
「ゼ、ゼーラント部隊、です! や、やつら急に、現れ――」
兵士はそう叫ぶと、馬から転げ落ちるようにして、地面にへたり込んだ。
その背中は、血で真っ赤に染まっていた。
「出るぞ!」
どこからか、号令が飛んだ。
「動ける者は武器を取れ! 村を救うぞ!」
その瞬間、元訓練所の人たちの顔が、ぱっと明るくなったのが分かった。
「やっとだ」
誰かが言った。
「やっと、俺たちの出番だ」
やっと、戦える。
やっと、誰かを助けられる。
僕の胸にも、久しぶりにあの熱が戻ってきた。
村を守る。
もしかしたら、これかもしれない。
なんのために。
名誉のためでも、栄光のためでもなく、ただ、目の前で襲われている誰かのために。
それなら僕にも、分かる気がした。
――けれど。
少し離れた所に一人だけ、動けずにいる人がいた。
僕と同じ日に訓練所に入った人だった。
拳を握ったまま、膝が笑っていた。
誰も、彼を責めなかった。
たぶん、責める余裕が誰にもなかった。
僕だって、胸の熱の下で、足の先が冷たくなっていくのを感じていた。
その時隣で、舌打ちが聞こえた。
キリアンさんだった。
武器を取るでもなく、麓の方をじっと睨んでいた。
「……嫌な感じだ」
ぽつりと、言った。
「嫌な感じ、ですか?」
「なんとなく、な」
キリアンさんはそれだけ言うと、口を閉じた。
それ以上は言わなかった。
でもその横顔は、村が襲われたと聞いた時よりも、ずっと険しかった。
やがてキリアンさんは、僕の肩を強く掴んだ。
「ヴィリー。俺のそばを離れるな。何があってもだ」
その目は、笑っていなかった。
「わ、わかりました」
わかったと言いながら、僕は何も分かっていなかった。
僕たちは、丘を下りた。
血豆を作りながら掘った、あの塹壕を背にして。
あんなに必死に掘ったのに。
でも、村が襲われているんだ。
自分たちの掘った穴の中で、待っている場合じゃない。
斜面を下るにつれて、足元がだんだん平らになっていく。
振り返ると、陣のある丘が、思っていたよりずっと高く見えた。
ローデが、すぐ後ろにいた。
その顔は、青ざめていた。
「……ヴィリー」
「なに?」
「これが終わったら、また穴掘りかな?」
ローデは、無理に笑おうとして、失敗していた。
「……だろうね」
僕も、うまく笑えなかった。
村に近づくにつれて、煙が見えてきた。
黒い煙が何本も、空へ真っすぐ立ち上っている。
前方を進む兵士の足が速い。
兵士たちの背中を追って、シュタイン隊の僕たちは走った。
息が上がる。
体がやけに重い。
いつもなら、なんてことがない距離なのに。
そして、村に着いた。
――遅かった。
もう、終わっていた。
燃えている家。
崩れた壁。
ひっくり返った荷車。
地面に、人が倒れていた。
一人じゃない。
何人も。
動く人は、一人もいなかった。
「ひでえ」
「やつら、なんてことを……」
「おい、気をつけろ。敵が潜んでいるかもしれん」
道の真ん中に、片方だけの小さな靴が落ちていた。
その持ち主がどこにいるのか、考えないようにした。
村は、とても静かだった。
家の燃える音だけが、ぱちぱちと鳴っている。
襲ったはずの、ゼーラント兵の姿は、どこにもなかった。
守るべき村人も。
僕は、なんのためにここへ来たのか、分からなくなった。
村を守る。
さっき芽生えたばかりのその答えは、もうどこにもなかった。
守るものが、最初からなかったのだ。
静かすぎる。
そう感じた時には、もう遅かった。
キリアンさんが、僕の腕をちぎれそうなほど強く引いた。
「――敵襲!」
キリアンさんが、北のほうを指差した。
その指が差すほうに、ずらりと影が並んだ。
馬だった。
何十、いや、何百という騎馬が、突然現れた。
村の火が、ぱちぱちと鳴っている。
その音の向こうで、角笛が、長く鳴った。
合図だった。
騎馬隊が一斉に、こちらへ突撃を開始した。




