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幻のなかで 〜名誉を教えた男は、送り出した教え子の顔を一つも覚えていない〜  作者: 星喰ゆう
第二章 ヴィリー

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第十話 卒業の時

 その日の夕食は、いつもより肉が多かった。


 鍋の底をおたまでさらうと、汁ばかりでなく、肉の塊がちゃんと引っかかる。


「おい、今日は当たりの日だぞ!」

「うお、今日は誰の誕生日だ?」

「馬鹿! お前、取りすぎだ! ちゃんと均等に分けろよ」

「そういうお前も、取りすぎだ!」


 鍋の具材が多い。

 それだけで、食堂中が笑いに包まれる。


 僕も笑った。


 ここへ来て二カ月と少し。

 厳しい訓練の毎日。

 食事中のこんな光景が、幸せに思えるような日々を過ごしている。


 隣の席に座っていたローデが、自分の椀の肉を僕の椀へ移した。


「これ、あげる。私、そんなに食べられないから」

「え、いいの?」

「うん。ヴィリーはいっぱい食べておかないとね。明日もしごかれるだろうし」

「げー。なんで僕ばっかり」

「気に入られてるんじゃない?」


 ローデが少し微笑んだ。


 彼女とは、同じ日にここに来た。

 同じ馬車で。


 彼女は十八歳。

 僕の二つ上。

 首都アルトの近くの村出身だ。


 アルトの応募所で見かけて、その時から、ちょっとかわいいな、とか――


「ヴィリー?」

「な、別に気に入られたくなんかないよ」


 僕は椀の中身をかき込んだ。



 食堂の扉が開いて、ディルク教官が入ってきた。


 教官がここに来るなんて、めったにない。

 どうしたんだろう。


 教官が、手を二度叩いた。


「訓練生、注目」


 先ほどまで騒がしかった食堂が、沈黙に包まれた。


「明日、ここを出発する」


 それだけだった。


 誰も意味を理解できなかった。


 訓練所に入ったからには、卒業するまでは、基本的には外には出られない。


「全員だ。ここにいる全員、明日の朝、前線へ向かうぞ」


 卓の一つが、椅子を鳴らして立ち上がった。


 ざわめきが波みたいに広がって、けれどそれは、僕が思っていたようなざわめきではなかった。


 悲鳴でも、抗議でもない。


「教官、俺たち二カ月しか訓練してませんけど」

「俺は一年ちょっと。それに、卒業試験もしてませんけど……」

「お前はまともにシルトも維持できないじゃないか。卒業なんて、夢のまた夢だよ」


 半分は笑っていた。


「関係ない」


 ディルク教官は言った。


「上が、お前たちを選んだんだ。分かるか? 三年いても声のかからん奴は、いつまでもかからん。お前たちは、かかった。それだけのことに、何を怯えてる?」


 上が選んだ。


 その一言で、食堂の空気が変わったのが分かった。


「全員、今日ここにいる全員が、明日、本物の兵士になる。訓練生じゃない。我がフェルゼンが誇るエリート部隊、シュタイン隊の一員だ」


 歓声が上がった。


 誰かが僕の背を叩いた。


 ローデが何か言ったが、聞き取れなかった。


 僕も、たぶん、笑っていた。


 胸のあたりが、湯を飲んだみたいに熱かった。


 選ばれた。


 僕が。


 たった二カ月しかいない、この僕が。

 明日から、シュタイン隊なんだ。


 その熱の隅で、離れた卓が目に入った。


 名前も知らない人。

 あの場所に座っているということは、たぶん二年以上ここにいる人だ。


 皆が立ち上がって声を上げる中で、その男だけが座って、箸を置いたまま、まだ湯気の立っている自分の椀を見ていた。



 夜、寝床に入ってから、考えなくてもいいことが、勝手に頭に上ってきた。


 ここへ来て、二カ月。


 三年訓練して、まだ卒業できていない人たちもたくさんいる。


 三年間この山で、シルトとブレイクを訓練して、それでもまだ前線には出されずにいた人たちが、僕たちと同じ日に、卒業する。


 二カ月しか訓練していない僕たちと。


 選ばれた、とディルク教官は言った。


 僕たちが選ばれたのなら、なぜ三年もいる人たちは、あんなに長く選ばれずにいたのだろう。


 そこまで考えて、僕は寝返りを打った。


 いや、考える必要なんかない。


 僕は選ばれた。


 あのシュタイン隊に。


 毛布を顔まで引き上げる。


 隣の寝息を数える。


 しばらくするとまた、考えなくてもいいようなことが頭に浮かぶ。


 寝返りをする。


 それを繰り返しているうちに、気づいたら外が明るくなっていた。


 結局、眠れなかった。



 朝は、霧がかかっていた。

 この時期のこの山は、いつもこうだ。


 中庭に、全員が並ぶ。


 息が白い。


 誰かの足踏みの音。


 僕はさっきから、自分の指のことばかり考えていた。


 手袋の中で、右手の指を、握って開いて、また握る。


 震えていないか。


 いざというとき、ブレイク魔法は使えるのか。


 二カ月で覚えた形は、まだ体に馴染んでいない感じがした。


 正面には、フリード教官が立っていた。


 この訓練所で一番偉い、というわけではない。


 けれど、僕たちが名誉という言葉を初めて教わったのは、この人の口からだった。


 背が高く、声が低く、その低さだけで、並んだ全員の背筋が伸びる。


「――山は動かない」


 フリード教官の声が、朝の中を渡っていく。


「お前たちは、背中を預けろ。そして――」


 その先は、僕の耳をただ通り過ぎた。


 立派な言葉だというのは分かった。


 分かったが、僕の頭の半分は、なぜ僕たちまで選ばれたのか。

 もう半分は、眠気だった。


 フリード教官が、列の前を歩き出す。


 一人ひとりの顔を、見ていくように。


 この人は、正直苦手だ。


 怖いし、なにもかも見透かされているような気がする。


 僕の隣、ローデの前で、その足が止まった。


「準備は出来ているか、マチルダ」


 僕は、指を握るのをやめた。


 マチルダ。


 今、そう言った。


 ローデの前で。


 ローデの名は、ローデだ。


 二カ月、僕はずっと隣でその名を呼んできた。


 マチルダなんて人は、ここにはいない。


「ロ、ローデです」

「……準備は出来ているな、ローデ」


 その言葉にローデは、ただ、まっすぐ前を見て、小さく顎を引いた。


 フリード教官は、もう次へ移っていた。


「なあ? マチルダって?」


 僕は小声でローデに質問した。


「わからない。でも、フリード教官って名前間違えること多いから」

「たしかに、自分の教え子の名前くらい覚えといて欲しいもんだけどな」

「仕方ないよ。私たち、二カ月くらいしかいないし」

「でもさあ――」


 その瞬間、フリード教官に見られた。


「やば」


 僕はすぐに姿勢を直した。


 幸い、何ごともなかった。



 しばらくして、訓練所の門が開いた。


 外にラルフ教官がいて、馬車の方へ手を振っていた。


「よーし、晴れてシュタイン隊になった諸君。馬車に乗り込め。奥まで詰めろよ。乗れなかったら歩いて行ってもらうからな」


 冗談のつもりだったのだろう。


 何人かが笑った。


 僕たちは荷物みたいに馬車へ詰められて、山を下りはじめた。


 振り返ると霧の中に、訓練所が白く霞んでいた。


 二カ月間、僕の全部だった場所が、みるみる小さくなる。


 誰かが歌を歌い出した。


 凱旋の歌だった。


 英雄が国へ帰ってくる、あの古い歌。


 声が合わさって、馬車はほとんど浮かれていた。


 僕も口を動かした。


 選ばれたという熱が、まだ胸の中に残っていて、僕はそれを消したくなかった。


 馬車が丘を三つ越えたあたりで、歌が止んだ。


 向こうから、列が来ていた。


 僕たちと同じ、フェルゼンの色をした兵士の列。


 けれどその歩き方は、行進ではなかった。


 引きずるような足。


 肩を貸し合う二人。


 荷車が一台、そこに人が積まれていて、僕は最初、それが人だと分からなかった。


 布の巻かれた腕。


 ピクリとも動かない体。


 匂いがした。


 僕の知らない匂いだった。


 甘いような、焦げたような、それでいて、嗅いだそばから喉の奥に貼りついて離れない匂い。


 歌の続きは、もう誰の口からも出てこなかった。


 すれ違いざま、荷車の縁から、一人の男がこちらを見た。


 僕と、そう歳の変わらない顔だった。


 目が合った、と思った。


 けれどその目は、僕の顔のところで、何にも引っかからずに、そのまま滑って、通り過ぎていった。


 まるで、そこに誰もいないみたいに。


 馬車はそのまま進んだ。


 僕は、胸の底の熱の置き場所が、急に分からなくなった。


 僕はまた、考えないようにした。

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