蜘蛛の糸と汚されたカルテ
背筋を冷たい氷で撫でられたような戦慄が走り、御影はビクリと肩を震わせると振り返った。
診療所の入り口、ラベンダーの香る柔らかな空気の中に、真白が立っていた。白衣を腕に掛け、小首を傾げて兄を見つめている。その瞳には怒りも動揺もなく、ただ透き通るような純粋さだけが浮かんでいる。
「……真白」
「……兄さん、患者さんのカルテを勝手に見ちゃダメだよ。いくら兄さんでも、それはプライバシーの侵害だよ」
真白は困ったように小さく笑いながら御影に歩み寄り、手を伸ばすとデスクの上のカルテをそっと閉じた。
カルテを見られたにも関わらず、真白の綺麗な指先は震えておらず、微塵の動揺すらもなかった。御影は喉の渇きを堪えながら、震える声で切り出した。
「……悪かった。……だが、真白……このカルテの最後は何だ。『自我の崩壊を確認』って……あの子は親戚に引き取られて、街を出たんじゃなかったのか?」
御影は懇願するように、真白に問いかける。張り詰めた沈黙。
「……」
真白はカルテの表紙を愛おしそうに撫でたあと、ふっと悲しげに視線を落とした。
「……うん……そうだよね。ちゃんと話してなかった僕が悪いんだ。……ごめんね、兄さん。心配させたくなくて、僕は兄さんに嘘をついた」
「嘘……?」
「うん。あの子、何度かここに来てくれて、色んな話をして……あんな事をされていたのに、親が警察に連れて行かれるのは嫌だからまだ待ってくれって言われてたんだ。……でも、最後にここへ来た時、もう心が限界を迎えていてね……僕の手には負えなくなっちゃったんだ。心が、治療を拒んでた。もう痛い思いをしないように、苦しくないように、蓋をしちゃってたんだ。だから、すぐに紹介してくれた総合病院の先輩に連絡して、緊急で引き継ぎをお願いしたんだよ」
「総合病院の、先輩……?」
思わぬ人物の登場に、御影の眉が動く。「うん」と答えてから、真白は椅子に腰を下ろした。
「渋谷区にある大きな総合病院あるでしょ?……○○○○。あそこの院長先生だよ。院長先生は僕が新米の精神科医として働いていた頃、一番最初にお世話になった尊敬する先輩なんだ。今は自分で独立して大きな総合病院を立ち上げて、地域の人たちからすごく愛されている名医だよ」
真白の表情には、恩師への純粋な信頼と敬愛が滲んでいた。
「院長先生はね、僕のカウンセリングの方針をすごく評価してくれていて……『真白くんの優しさで、じっくりケアしてあげてほしい患者がいる』って、定期的に患者さんを紹介してくれるんだ。あの家庭内暴力を受けていた女の子も、その前に来ていた真面目な男の人も……直近の患者さんは全部、院長先生の直接の紹介だったんだよ」
ドクン、と御影の心臓が警鐘を鳴らした。
(青年も、あの少女も……全員、同じ院長の紹介……!?)
「あの子を引き継いだあと、院長先生から『ちゃんと優しい親戚が見つかって、無事に遠くの街へ行けたよ』って連絡をもらったんだ。」
真白はデスクの上のカルテに目をやり、困ったように笑う。
「でも、引き継いじゃったから今僕の方にその情報が載ったカルテがある訳じゃないんだけど……カルテの開示請求すればすぐ送ってくれると思うよ。だから僕、安心して兄さんにもそのまんまの内容を伝えたんだけど……」
説明していた真白は御影の顔が険しくなっているのを見て、説明を止めた。そして途端に不安そうな表情になり、立ち上がる。
「……ねえ兄さん、どうしてあの子のことが気になるの? ……まさか、何かあったの……?」
不安そうに小首を傾げ、まっすぐに自分を見つめてくる真白の澄んだ瞳。そこに後ろ暗い影など欠片もなかった。
(……そうだ。真白が人を傷つけるはずがない。真白は、ただ利用されていたんだ)
道木が見た「純度の高い思念の糸」。感情の核を人為的に引き裂く凶行。
すべてが一本の線で繋がった。
心の弱った人間を見つけ出し、真白の優しさで警戒を解かせ、最後は自らの病院で怪異へと変異させる――。
地域で名医と持て囃されているその院長こそが、怪異を量産している元凶、すべての黒幕だ。
「……いや、何でもない。無事ならいいんだ」
御影は真白を不安がらせまいと無理に表情を緩め、真白の頭を一度だけぽんと叩いた。
「真白、お前は何も悪くない。……俺は少し急用ができた。また来る」
「えっ、もう行っちゃうの? お茶淹れるのに……」
「また今度な」
「えぇ〜……」
名残惜しそうに見送る弟の声を背に受け、御影は診療所を飛び出した。
胸の奥で渦巻くのは、最愛の弟を盾にし、善意を踏みにじった外道への激しい怒りだった。
────
アジトの薄暗いガレージに駆け戻った御影は、待機していた仲間たちへ一気に情報を叩きつけた。
「渋谷の総合病院の院長だ。最近の怪異……あの青年も少女も、全員あいつの手引きだった。真白の診療所を隠れ蓑にして、患者を怪異に変異させていやがったんだ」
「渋谷の○○○○総合病院って……あのでかいとこか?」
道木が目を見開き、顎に手を当てて唸る。
「なるほどな……あの規模の病院なら人の出入りも異常に多いし、患者のカルテを改ざんするのも容易だ。俺が見た『途中で絡み合って途切れた思念の糸』も、あの巨大な病院が中継地点になっていたとすりゃ辻褄が合うな」
「地域で愛される名医が、裏では患者を怪異に仕立て上げていたって……ずいぶんと悪趣味な冗談だよね。頭痛がしてくるよ」
角谷は道木の言葉に溜息をついて頷くと、眉間を細い指先で軽く押さえた。
「御影くん……本当に行くんですか? 相手は一般の病院です。下手に動けば、こちらが犯罪者として追われることになります……上の指示を……」
月下が心配そうに眉を寄せ、御影の表情を窺う。
「関係ない。これ以上、あの男に真白を利用させるわけにはいかない」
御影は黒いコートの襟を立て、鋭い眼光で仲間たちを見据えた。
「今から渋谷に行くぞ。あの院長の化けの皮を、直接引き剥がしに行く」
御影の言葉に道木と角谷はやれやれと頭を振りながらも立ち上がり、月下は泣きそうな顔で全員の顔を見ていた。




