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天使がいない街  作者: 黒沼司


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8/8

白衣の救済者


あの日泣きつく桜に止められ、御影達は渋谷の総合病院に殴り込みに行くのを諦め、御影達の組織上層部に相談の元院長に会ってもらえるようにに手順を踏んでいた。


『○○○○総合病院……?ふーん。良いんじゃない?』


上層部に連絡したところ、いつものような軽い口調で言われ御影は通話していた携帯をぶん投げた。

院長との面会の表向きの名目は「外部支援機関と地域医療の連携に関する意見交換」。真白の診療所の名を借りる形を取ることで、院長側の警戒を最小限に抑え込んだのだ。

案の定、院長側からはすぐに承諾と面会の日程まで送られてきた。


「……行くぞ」


あれから二日後の朝。ようやく院長との対面にこぎつけた御影は、不機嫌そうに歩き出した。


────


渋谷の中心部にそびえ立つ地域最大の医療機関である総合病院の最上階、院長室の重厚な扉の前に御影たちは立っていた。

案内された部屋は、薬品の匂いなど微塵も感じさせない、落ち着いたウッディな内装と柔らかな陽光に包まれていた。


「やあ、よくいらっしゃいましたね。真白君の関係者の方々とお会いできるのを、とても心待ちにしていたんですよ」


デスクから立ち上がり、穏やかな笑みをたたえて歩み寄ってきた男こそが、院長だった。


「私が院長の神田夾です」


四〇代後半という年齢を感じさせない、知的で洗練された佇まい。仕立ての良いスーツの上に羽織った白衣が、引き締まった体躯によく似合っている。銀縁の眼鏡の奥にある目元には優しげな笑み皺が刻まれており、若い頃にはどれほど周囲の目を惹きつけただろうと思わせる端正な顔立ちだった。


「初めまして院長さん。僕は道木要で、こっちが角谷紫苑と月下桜。で、こっちが逢坂御影です」


御影が黙っているのを見て、社交的な道木がニコニコと笑いながら全員を紹介した。道木の言葉に御影を除いた全員は軽く会釈をする。


「……御影君。貴方が、あの真白君のお兄さんですね。噂は真白君から伺っていますよ。真白君は私の自慢の後輩でしてね。本当に純粋で、誰よりも傷ついた人の心に寄り添える、得難い逸材です。学生時代から私が目をかけて指導していたのですが、彼が自分の足で小さな診療所を開いた時は、まるで我が子の巣立ちを見守るような誇らしさでしたよ」


院長は御影の手を両手で丁寧に包み込むように握り、心底嬉しそうに目を細めた。その丁寧な所作の一つひとつに、真白を心から可愛がり、誇りに思っている様子がこれ見よがしに滲み出ている。

ソファへ案内され、角谷や月下、道木が神妙な面持ちで腰を下ろす。テーブルには綺麗に切られた桃が人数分の皿に置かれており、月下は嬉しそうな顔をしたが、伸ばした手を角谷に止められしょんぼりと下を向いた。その隣で御影は胸の奥で湧き上がる吐き気を押し殺していた。


(……気持ち悪い)


全員に対して徹底された、張り付けたような笑顔と丁寧な口調。上辺だけを飾り立てた、無菌室のように清潔な善意の仮面。美辞麗句を並べるこの男の醸し出す空気が、御影にはたまらなく鼻についた。真白を溺愛しているように語りながら、その言葉の端々に漂うのは、自らが絶対的な庇護者であるという傲慢な自己陶酔にしか見えない。


「それで……真白君に紹介させていただいた患者さんたちのことで、少し気にかかる点がおありだとか」


院長は紅茶のカップに静かに手を添え、慈愛に満ちた眼差しを御影へ向けた。


「あんたが真白の診療所を紹介した患者は皆怪異になった。しかも真白が救った直後に、異様な形で心が壊れて暴走した怪異だ」

「あの家庭内暴力に怯えていたお嬢さんや、職場の重圧に苦しんでいた青年ですね。お二人とも、本当に可哀想な境遇でした。傷つき、怯え、世界のすべてを呪ってしまいそうなほど疲れ果てていた。」


悲しそうに目を伏せたまま、院長は話し出す。


「真白君はそういう子達の話を聞いて救うのがとても上手ですから。だから彼の診療所へ行くよう紹介したんです。……ですが、真白君でも少女の方は難しかったようでね……知っての通り、ここに戻ってきてしまった。ですが、安心してください。真白君から私が直接引き継ぎ、最も相応しい、痛みのない安全な場所へと送り届けて差し上げました。人は誰しも、苦しみから解放され、心安らぐ居場所を得る権利があります。私はただ、その手助けをさせていただいただけなのですよ」


まるで迷える子羊を救った聖者のような口ぶり。

御影の奥歯がギリと音を立てる。痛みのない場所? 心安らぐ居場所? 嘘をつけ。お前が送り出した先は、どす黒い灰となって夜の雨に散る、絶望の怪異化の現場だったはずだ。

御影は膝の上で拳を握り締めながら、隣に座る道木に小声で問いかけた。


「……おい、要。どうだ」


院長が患者への慈悲深さを優しげな声で語り続けている合間を縫い、道木は静かに瞳の奥を収斂させていた。院長を観察し、その肉体と精神の波長を微細にスキャンする。

だが、道木は眉根を寄せ、微かに首を横に振った。耳元に寄せてきた声は、困惑に掠れている。


「……信じられねえが、ねえぞ」

「何……?」

「核がねえ。それどころか……悪意も、憎悪も、怪異を生み出すような負の感情の澱みすら、こいつの魂からは欠片も感じ取れねえ。マジでただの聖人様だ」


御影の思考が凍りついた。

怪異の核がない? 悪意も負の感情もない?

では、なぜだ。なぜこの男の手を経て、真白の元へと送られ、そして再びこの男へと引き継がれた患者たちばかりが、ことごとく怪異化して命を散らしているのか。


(まさか……本当にあの少女は関係ない……?)


目の前で銀縁の眼鏡を押し上げ、柔和な微笑みをたたえているこの男が元凶でないなら、一体誰が――。

不可解な空白に息を詰まらせたその瞬間、院長室の重厚な扉がノックもなしに乱暴に開け放たれた。


「院長先生……! お薬の、追加を……私、もう限界で……ッ!」


入ってきたのは、白衣の胸元を乱した女性看護師だった。その顔面は蒼白を通り越して土気色に変色し、瞳孔は異常に開ききっている。そしてその背後からは、大気を重く圧迫する、おぞましいコールタールのような悪臭と黒い瘴気が噴き上がり始めていた。


「……全く。お行儀が悪いですね、お客様が来ているというのに」


呆れたような院長の言葉に、一同は言葉に出来ない恐怖を感じて勢いよく立ち上がった。


「さて……どうしましょうか」


院長は困ったように笑った。


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