清らかな歪み
湯気の立つ紅茶の香りと、穏やかに微笑む真白。
あの日の診療所で得た安堵は、確かに御影の強張った神経をほどいてくれたはずだった。少女は無事だった。弟は誰も傷つけていないし、その優しい心で一人の人間を救い出したのだと、そう信じきっていた。
だが、平穏はあまりにも脆く、すぐに崩れ去ることになる。
数日後の深夜、降りしきる雨が上がったばかりの雑居ビル屋上で、御影たちは新たな怪異を討伐していた。引き裂かれた核から漏れ出たのは、狂気じみた悪意などではない。
「痛いよ、苦しいよ」「誰か助けて」――胸を掻き毟るような悲痛な叫びを残し、怪異は黒い灰となって夜風に散った。
その核を右腕に喰らい、臓物を灼かれるような痛みに耐えながら、御影は荒い息を吐き出す。
「……おかしい。」
違和感は、もはや無視できない域に達していた。
本来、怪異とは抑えきれない悪意やエゴ、破滅的な欲望が人間の心の闇となり、それに飲み込まれた者がなるものだ。しかし、ここ最近葬ってきた怪異たちはそれとは異なり悪意や人間の欲望、穢れなどに飲み込まれ醜くなった者達ではなかった。職場での虐めやプレッシャーに押し潰された青年、家庭内暴力に怯えていた少女、そして今日の被害者。どの怪異も元々はただ弱く、悲しみと苦痛に苛まれていただけの哀しい者ばかりだった。
なぜ、これほど立て続けに「ただ苦しんでいた普通の人々」が暴走するのか。
この街そのものが狂い始めているのか、それとも――。
「……要」
御影は血を拭い、黒いコートを翻して歩み寄ってきた道木を見上げた。
「ん? どうした、御影。反動が酷いのか?」
道木は屈むと御影の背中をさすって首を傾げた。
「いや……そうじゃない。頼みがある。おい背中をさするな。……この現場……いや、最近の怪異の出現地点を『トレース』してみてくれないか。何か、妙な共通点がないか探りたい」
御影の言葉に道木は眉をひそめ、真剣な眼差しの御影をじっと見つめたあと、短く「わかった」と頷いた。紫苑が「おい道木、無駄骨折るなよ」と後ろから悪態をついたが、道木はそれを軽く手で制し、静かに神経を研ぎ澄ませる。
道木の目が淡い光を帯び、空間に残された残留思念の流れを視覚化していく。大気中に漂う幾千の感情の残滓。その中を慎重に手繰り寄せていた道木の表情が、次第に険しく強張っていった。
「……おい、御影。これ、普通じゃねえぞ」
「何が見えた」
「全部の現場だ。直近で出た怪異の発生地点……すべてに、同じものが残ってる。極めて純度が高い、細い『思念の糸』のような痕跡だ。誰かが意図的に感情の核へ干渉し、無理やり引き裂いて破裂させたような……異常なほど研ぎ澄まされた力の手触りがある。……でも無理だな。途中で途切れてて、糸が絡み合ってる。発生地点が絞れない。」
道木の言葉に、御影の心臓が不吉な音を立てて跳ね上がった。
特定の誰かが、怪異を人為的に生み出している。それも、悲痛な悩みを抱える人間だけを狙い撃ちにして。
────その日を境に、新宿の異常事態はさらに加速した。
連日のように鳴り響く出動要請。夜ごとに現れる新たな怪異。街の闇が急速に濃くなっていくにつれ、御影の精神はすり減っていった。
戦えば戦うほど、右腕に溜まる怨嗟の澱みとともに、胸の奥の不安が黒く膨らんでいく。
誰がそんな非道を行っているのかという怒り。
そして――人の心の痛みに寄り添い、傷つきやすい魂ばかりを診ている真白への、拭いきれない心配だった。
あんな優しい弟が、この悪意に満ちた事件の巻き添えを食らいはしないか。あの華奢な身体が、街に満ちる毒に当てられはしないか。
居ても立ってもいられなくなった御影は、討伐の合間を縫い、縋るような思いで再び真白の診療所へと足を運んだ。
────
カラン、とドアベルが静かに鳴る。
いつもなら「おかえり、兄さん」と柔らかな声が出迎えてくれるはずの空間には、ただラベンダーのアロマの香りと、しんと静まり返った空気だけが漂っていた。
「真白……?」
返事はない。奥の給湯室にも、簡易ベッドが置かれた控室にも、真白の姿は見当たらなかった。少し席を外しているだけだろうか。
張り詰めていた肩の力を抜き、御影は診療所の中へと足を進める。
整然と片付けられた白いデスク。その中央に、一冊のカルテが無造作に開かれたまま置かれていた。
他人のカルテを勝手に見るなど、倫理的にも真白への信頼としても許されない行為だ。目を逸らし、ソファーへ向かおうとした。
だが、開かれたページの端から覗く顔写真が、御影の視線を釘付けにした。
(……あ……)
足が止まる。呼吸が止まる。
吸い寄せられるように、御影の手が震えながらカルテへと伸びた。
いけないと頭では叫んでいるのに、指先はページをめくっていた。
そこに挟まれていたのは、あの土砂降りの夜、自分が右腕で貫いて喰らった――家庭内暴力に怯えていた、あの少女のカルテだった。
震える目で文字を追う。
だが、どれほど目を凝らしても、真白が口にしていたはずの記録はどこにも存在しなかった。
警察や児童相談所が介入したという報告も、遠方の親戚に引き取られて街を出たという記述も、何一つ書かれていない。
カルテの最終行に、真白の几帳面で美しい筆跡で記されていたのは――。
『経過観察:家庭環境による精神的破綻、最終段階。自我の崩壊を確認。』
ただ、それだけだった。
「……な、んだよ……これ……」
全身の血が足元からサーッと引いていく。
街を出たはずじゃなかったのか。救われたはずじゃなかったのか。
(────自我の崩壊を確認?あの子は、やり直せたんじゃなかったのか?自我の崩壊?いつ……?)
道木の言っていた「純度の高い思念の糸」という言葉が、激しい耳鳴りとなって脳内を反響する。
嘘だ。何かの間違いだ。真白がそんなことをするはずがない。
必死に否定しようとカルテを閉じようとした、その時だった。
「……何してるの、兄さん」
背後から、静かで優しい真白の声がした。




