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天使がいない街  作者: 黒沼司


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悲痛な叫びと傷だらけの自由

息をつく間もなく、御影たちは今日も怪異を葬るため土砂降りの中、息を切らしながら闘っていた。

降りしきる大雨が、薄暗い住宅街のアスファルトを黒く濡らしていく。

人気のない路地裏、点滅する街灯のわずかな光の下で、異様な金属音と生肉の擦れ合う鈍い音が響き渡っていた。

 

「……ッ、御影! 来るぞ、防御を固めろ!」

 

道木の鋭い警戒と同時に、闇の奥から巨大な異形が姿を現す。

それは、折れ曲がった鳥籠のように肋骨を剥き出しにした異形の怪物だった。全身を覆う無数の黒ずんだ打撲痕と、皮膚を引き裂くように巻き付いたコールタール状の包帯。背中からは鋭利な骨の針が無数に突き出し、大気を震わせるほどの憎悪と怯えを撒き散らしている。

 

『痛い、痛い、イタイ……! 殴らないで、苦しいよ……! コロシテヤル、お前なんか…産まなきゃヨカッタ……死ンじゃえばいいんだぁぁッ!!』


耳を劈く少女の金切声が、激しい泣き声と怨嗟となって反響した。

怪異が腕を振り抜いた瞬間、アスファルトが爆音とともにめくれ上がり、鋭利な瓦礫の雨が降り注ぐ。


「桜、下がってろ! 紫苑、奴の右腕の自由を奪え!」


御影の指示と同時に、角谷の術式が発動した。

怪異の足元と右腕の周囲の空間が瞬時に凝固し、見えない硬質の楔となって突進を強引に縫い止める。ギチギチと軋む空間の軋轢音の中、怪異は拘束を引きちぎろうと狂乱した。その胸の中央――歪に組まれた肋骨の檻の奥底で、ドス黒く脈動する核が露出する。


「核の直上に防御結界の歪みがある! そこを突け、御影!」


道木の指示を受け、御影は濡れた壁面を蹴り上げて跳躍した。

黒いジャケットを翻し、怪異の頭上へと躍り出る。その右腕には、怪異を屠るための禍々しい漆黒の刃が凝縮されていく。

怪異の顔――包帯の隙間から覗く、恐怖に歪んだ少女の瞳と御影の視線が交錯した。


「……私、もう、痛くないよ」


少女の泣き声のような呟きが鼓膜をかすめた瞬間、御影の右腕は容赦なく胸部を貫いていた。

ドス黒い衝撃波が路地裏を吹き飛ばす。怪異の絶叫とともに、その肉体から膨大な生命力と、泥のように重く冷たい怨嗟が御影の右腕へと逆流していった。内臓を直接握り潰されるような激痛と同時に、喰らい取った記憶の断片が脳内へ雪崩れ込んでくる。


――暗い部屋で、激しい罵声を浴びせられながら蹴りつけられる記憶。

――身体中にできた紫色の痣を見つめ、一人で膝を抱えて泣いていた記憶。

――そして、白く柔らかな光に包まれた診療所で、泣きじゃくる自分を優しく抱きしめてくれた『先生』の温もり。


『……先生。私、自由になれたよ――』


最期の祈りが途切れると同時に、怪異は黒い灰となって雨の中に散っていった。


「がはっ……!」


御影は濡れた地面に膝をつき、激しく吐血した。背後で桜が胸を押さえて苦悶の声を漏らし、道木と角谷が慌てて駆け寄ってくる。


「御影! おい、大丈夫か!?」


「……ぁ……」


御影の瞳は焦燥と戦慄に見開かれていた。

脳裏をよぎる弟の顔。つい先日、真白が涙ながらに語っていた「家庭内で暴力を受けている少女」の言葉が、耳の奥で警鐘を激しく打ち鳴らしていた。まさか、そんなはずはない。だが、先ほど喰らった記憶の温もりと少女の遺した言葉は、あまりにも重なりすぎていた。


「御影、傷の手当てが先だ! おい!」


「すまない、先に行っててくれ……っ!」


呼び止める仲間の制止を振り切り、御影は泥混じりの雨を蹴って一心不乱に走り出した。人違いであってくれと、あの怪異はお前が心配していた少女ではないと笑ってくれと、胸の内で祈り続けながら。


────


雨の中を駆け抜け、辿り着いた御影は診療所の扉を力任せに押し開けた。


「……真白!!」


肩で荒い息をつく御影に、デスクで書類を整理していた真白が驚いたように顔を上げた。


「兄さん? どうしたの、そんなに急いで……息が上がってるよ」


御影は喉の渇きを無視し、縋るように核心を問い詰めた。


「……前にお前が言っていた、家庭内で暴力を受けていた女の子だ。あの患者は……今、どこにいる?」


先ほど討伐した怪異が遺した記憶と、「先生」と呼ぶ声が脳裏を焼き尽くしていた。もしあの怪異が真白の救おうとしていた患者だったなら、弟はまた救えなかった自責で壊れてしまう。

だが、真白は一瞬だけ目を丸くしたあと、花が綻ぶように優しく微笑んだ。


「……ああ、あの子のこと? 心配してくれたんだね。安心して、兄さん。あの子ならもう大丈夫だよ。昨日、警察や児童相談所が間に入ってくれて、遠方に住む優しい親戚の家に引き取られたんだ。もうあの親から殴られることもないし、遠い町へ引っ越していったよ」


真白は嬉しそうに目を細め、胸に手を当てて続けた。


「『先生、私、新しい場所でやり直すね』って……すごく晴れやかな顔で笑ってくれたんだ。兄さんが昔救われなかった分、あの子の未来だけは守れた気がして……僕、本当に嬉しかったんだ」


その淀みのない澄んだ瞳と無垢な笑顔に、御影の全身から一気に力が抜けていく。

あの怪異は街のどこかにいた別の犠牲者であり、真白の患者ではなかったのだ。弟の善意は踏みにじられず、一人の少女の未来は守られたのだと、御影は深く安堵した。


「……そうか。無事だったんだな。……よかった」


「うん。……あ、兄さん、顔色がまだ少し悪いよ。今、温かい紅茶を淹れるね」


真白はトレイを手に取り、鼻歌交じりに軽やかな足取りで給湯スペースへと背を向けた。

コトコトとお湯の沸く穏やかな音が、静かな診療所に響き始める。


激しい雨音を遠くに聞きながら、御影はようやく深くソファーに腰を下ろした。

 

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