救えなかった過去の為に
白を基調とした診療所には、柔らかな陽光とラベンダーのアロマが静かに満ちていた。
丁寧に手入れされ挿された季節の花が、かすかに揺れている。
「はい、兄さん。カモミールティーだよ。昨夜も遅くまでお仕事だったんでしょ? 顔色が良くないよ」
穏やかな笑みを浮かべた真白が、湯気の立つマグカップを御影の前に置いた。
清潔感のある白いニットに、端正な顔立ち。昨夜、新宿のヘドロの中で怪異と血みどろの殺し合いをしていたことなど嘘のように、ここには平穏な時間が流れていた。
御影はカップに手を添え、低く息を吐き出す。
「……真白。少し、話がある」
「うん? どうしたの?」
御影は純粋に兄の言葉を待つ真白を前に、言葉を絞り出した。
「先日、ここに来てただろ。職場の人間関係に悩んでいたっていう……若い男だ」
「うん、覚えてるよ。すごく真面目で、……彼がどうかしたの?」
「……あいつは、昨夜、怪異になった」
御影の言葉に、真白の動きがぴたりと止まった。
「歌舞伎町の裏手で暴走して……俺たちが処分した」
沈黙が診療所を支配した。
真白の手から、ティースプーンがカランと音を立ててトレイに落ちる。
みるみるうちに真白の瞳から色が抜け、青白い唇が小刻みに震え始めた。
「嘘……でしょう? そんな……」
「真白――」
「僕のせいだ……っ」
真白は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「僕が『もう我慢しなくていい』なんて言ったから……! 張り詰めていた糸を、僕が切っちゃったんだ……! 僕がもっとちゃんと話を聞いていれば、あんなことにならなかったのに……っ!」
大粒の涙が、白い指の隙間からポロポロと零れ落ちる。
取り乱して乱れた前髪の隙間から、白く引き攣った額の古傷が覗いていた。
幼い頃、母親の暴力から真白を庇いきれずにつけてしまった、一生消えない傷痕。
御影の胸が、締め上げられたように軋んだ。
「お前のせいじゃない!」
御影は床に膝をつき、震える弟の肩を強く抱き寄せた。
「お前はあいつを救おうとした。寄り添おうとしたんだ。悪いのは、あいつの心を壊した環境と、この街の澱みだ。お前が背負うことじゃない……絶対にだ」
「でも……っ、僕が……!」
「お前は間違ってない。俺が保証する」
御影は真白の冷え切った背中を何度も擦った。
泥をすすり、怪異を殺して手を汚すのは自分の役目だ。この純粋で優しい弟の手だけは、絶対に汚させてはならない。
数分後、真白はしゃくりあげながら涙を拭い、無理に口角を上げて微笑んで見せた。
「……ごめんね、兄さん。僕、カウンセラーなのに……情けないや」
「気にするな」
「……兄さんは、本当に優しいね。……そうだよね、落ち込んでばかりじゃいられないよね。まだ、僕を待ってくれている人がいるんだから」
真白はデスクの上に置かれた一冊のカルテに、そっと指先を触れさせた。
「実はね……最近、もう一人すごく心配な女の子が来ているんだ」
「……どんな患者だ?」
「まだ学生なんだけど……家庭内で、酷い暴力を受けていてね。腕にも首にも、たくさん新しい痣があって……怯えて、震えてるんだ」
真白はカルテを見つめたまま、どこか遠い目をして呟いた。
「その子を見てるとね……昔、殴られていた兄さんの姿を思い出しちゃうんだよ。周りの大人達は誰も救ってくれなかった…。僕も、兄さんも、ずっと痛かったよね。苦しかったよね。」
ドクン、と御影の心臓が跳ね上がった。
「だから……その子だけは、絶対に救いたいんだ。昔の兄さんを救えなかった分、今度こそ僕が……その子の痛みを全部、消してあげたい」
真白の澄んだ瞳が、決意の光を宿して御影を見つめ返す。
そのあまりに純粋な善意と、自分への深い情愛に、御影は息を呑んだ。
「……真白」
「大丈夫、無理はしないよ。でも、見捨てることだけはしたくないんだ」
「……ああ。だが、決して一人で抱え込むなよ。何かあったら、すぐに俺に言え」
「うん。ありがとう、兄さん」
真白の花が咲くような笑顔を見届けながら、御影は胸の奥底に湧き上がったかすかな不安を、必死に押し殺していた。
人を救いたいと心から願う弟に、御影はこれ以上何も言えなかった。




