張り子の笑顔
湿り気を帯びた夜風が、新宿のネオン街を撫でていく。
雑居ビルの隙間、ゴミ捨て場の異臭が漂う薄暗い路地裏で、道木要が小さく舌打ちをした。
「……角谷、そっちの配置はどうだ」
「すでに完了している。歌舞伎町方面への退路は遮断した。一般人の視界も逸らしてあるが……長くは持たないぞ」
耳元のイヤホンから、角谷紫苑の硬質な声が返ってくる。
「了解。御影、桜ちゃん、来るぞ」
道木の視線の先――雑居ビルの外壁を、ドス黒いヘドロのような質量がズルズルと這い上がっていた。
割れたガラス片や看板を巻き込みながら、それは風船のように膨れ上がっていく。異形と化したその肉体から、引き攣った笑顔の人間の顔が無数に浮き出ては沈んでいた。
「申し訳ありません、僕の責任です」
「申し訳ありません、すぐ直します」
「……申し訳、ありません」
「誰か僕を……褒めてくれよぉッ!!」
謝罪の言葉が、一瞬で耳を劈く絶叫へと裏返る。粘液の塊から巨大な腕が生え、アスファルトを粉砕しながら突進してきた。
「角谷ッ、止めろ!」
「任せろ!」
角谷の声とともに空気が軋み、赤い糸が怪異の四肢を地面へと縫い止める。
「桜……頼んだぞ!」
「うん……! 御影くん、いって!」
月下桜の声に応え、逢坂御影は低く身構えて地を蹴った。
非常階段を蹴り破り、御影は怪異の懐へと飛び込む。
胸元の粘液の奥で激しく脈打つ「核」が見えた。
御影の右腕に、禍々しい黒い刃が現れる。
怪異の顔が一斉に御影を向き、涙を流しながら叫んだ。
「先生が……真白先生が言ってくれたんだ……!」
「もう我慢しなくていいって……僕は、充分頑張ったんだってぇぇッ!!」
「――真白だと?」
怪異が叫んだ弟の名前に、御影の思考がわずかに揺らぐ。
「あいつの診療所に来ていたやつか……」
真白は救おうとしたのだ。だが男の澱は、その優しさを飲み込んで怪異へと成り果ててしまった。
「お前の優しさでも、救えないものはあるのか……真白」
御影の瞳から躊躇が消える。これ以上、弟の善意を汚させるわけにはいかない。
「……もう、眠れ」
御影の刃が、怪異の胸部へと深々と突き刺さった。
ドクン、と路地裏全体が脈打つ。
怪異の絶叫とともに、ドス黒い命と力が御影の右腕へと逆流していく。
「ぐっ……がああっ!」
「――御影くんッ! 私に預けて……っ、くっ!」
背後で桜が胸元を押さえ、苦悶の声を漏らす。御影が喰らった痛みが、彼女の身体へと転移していた。
やがて怪異は灰のような黒い塵となって崩れ落ち、新宿の夜風に攫われて消えていった。
「……はぁ、はぁ……」
静まり返った路地裏で、御影は荒い息を吐きながら立ち尽くす。
右腕に残る男の無念の味を噛み締めながら、御影は静かに拳を握りしめて呟いた。
「あいつがどれだけ人を救おうとしても……この街はそれを怪物に変えてしまうのか」
「御影くん、大丈夫……?」
桜の気遣わしげな声に、御影は小さく首を横に振った。
「ああ、問題ない。……だからこそ、俺がこの手を汚し続けるしかないんだ」
御影は痛む右手を更に強く握りしめた。




