額の傷と消えない鎖
真白の部屋を後にした逢坂御影は、自室のドアを閉めた瞬間に壁へ背中を預け、ずるずると床へ滑り落ちる。
右腕の皮膚の下で、先ほど討伐した怪異から喰らったドス黒い呪気が脈打っていた。他者の命と力を無理やり引き裂き、己の肉体にねじ込む感覚は、何度経験しても魂を削られるような吐き気を伴う。
ベッドに倒れ込み、シーツを握りしめたまま目を閉じた御影の意識は、いつの間にか底知れない闇の底へと落ちていった。
鼻をつく安酒の刺激臭。足元に散らばる割れた酒瓶のガラス片。
かなり築年数が経っているであろう古びたアパートの薄暗い部屋の隅で、幼い御影は激しい怒号と革ベルトの擦れる音に震えていた。
「この役立たずが! 化け物め、何様のつもりだ!」
父親の荒い息遣いと、容赦なく振り下ろされる暴力。毎日のように繰り返される暴言と暴力の数々。幼い御影は痛みに呻くことすら許されず、壁際へ追い詰められていた。
部屋の向こう、キッチンの隅では母親が耳を塞ぎ、小さく丸まって震えていた。助けを求めて母親を見るが、御影と目が合った母親はまるで汚物を見るかのようにすぐに視線を逸らす。助けを求めることすら拒絶された御影は涙を流しながら唇を噛み締めた。
その時、小さな足音が響いた。
「やめて! 兄さんをいじめないで!」
泣きじゃくりながら飛び出してきた真白は、御影の前に小さな両手を広げ、小さな身体で父から兄を覆い隠すように抱き締めた。
「邪魔だ、どけッ!」
怒り狂った父親は、床に散らばっていた酒瓶を一つ手に取ると、泣きじゃくり父を見上げた真白の頭上へ容赦なく振り下ろした。
割れた瓶の音と共に、幼い弟の短い悲鳴が部屋に響いた。
真白の額が割れ、鮮血が噴き出す。
ドクドクと流れる赤い血が、真白の白い頬を伝い、御影の衣服を濡らしていった。
――真白の血を見た瞬間、幼い御影の頭の中で何かが壊れた。
無我夢中で伸ばした手が父親の手首を掴む。
ドクン、と激しい鼓動とともに、御影の身体の奥底から黒い奔流が溢れ出した。
父親の身体から生命力が急速に吸い取られ、肌は一瞬で土色に変わり、白目を剥いて床へと崩れ落ちる。
「ヒッ……化け物……!」
その光景を見た母親は、悲鳴を上げながら玄関を飛び出していった。
静まり返った部屋で、御影は額から血を流す真白を必死に抱きしめ、涙をボロボロと流して震えていた。
「ごめん、真白……俺のせいで……俺が化け物だから……!」
だが、痛みに耐えながら顔を上げた幼い真白は、血で濡れた顔でふわりと微笑んだ。
小さな手が、御影の濡れた頬に触れる。
「……兄さんは化け物なんかじゃないよ」
痛みに耐えながら、震える声で真白は呟いた。
「僕を守ってくれたんだもん。兄さんは……僕のヒーローだよ」
その言葉が、その血塗れの笑顔が、誰も助けてくれなかった傷だらけの幼い御影を救った。
「――ッ!」
激しい息切れとともに、御影はベッドから跳ね起きる。
額には冷や汗がびっしりと浮かび、心臓が早鐘のように打っていた。
窓の外はすでに日が落ちており、周りのビルや飲食店、建ち並ぶ建物の明かりが街を照らしていた。
御影は震える右手の平を見つめ、ゆっくりと拳を握りしめる。
夢で見た幼い真白の抉れた額を思い出し、御影はふと込み上げた吐き気を抑えるように手で口を抑えた。
未だに消えない、普段は長い前髪に隠れた真白の額の傷。
御影は拳を強く握りしめた。
(俺は化け物でいい。あいつのヒーローでいられるなら、この手をどれだけ汚しても構わない)




