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教会の中庭で、私はエトワールのノエルと二人きりで馬車を待っていた。
夏の終わり。
ついこの前まで明るかったはずの空も、最近はすぐに夕暮れへと染まっていく。
涼しい風が頬を撫で、木々の葉を静かに揺らした。
「ごめんなさい、引き留めてしまって。」
ノエルは申し訳なさそうに眉を下げた。
私は静かに首を振り、お話しできることを光栄に思っている、と形式的に答えた。
「ヴェロニカちゃんのこと、話しておきたくて。」
意外な話題で、思わず目を見開いてしまった。
「…私は今年度で音楽院を卒業するから。」
「セレナさん達の方が、彼女と接する時間が長くなるだろうと思って。」
夕陽に照らされ、ノエルの薄翠の髪がキラキラと光を纏った。
真っ直ぐな目線で見つめられると、思わず気恥ずかしく感じてしまった。
「…彼女のことは、知っているかな?」
その質問には困ってしまった。
ノエルからしたら、私は恐らく彼女のことを一寸も知っていない。
それでも、新入生コンサートで接した時の印象もあるし、ユリウスの家で知った彼女の情報も持っている。
「…いいえ。」
「ですが…成績優秀で、私と同じ”ソプラノ・コロラトゥーラ”でその名手のヴェロニカ・エーデル様には憧れの念があり…不躾ながら、アルディエ様にヴェロニカ様のことをお伺いしたことはあります。」
嘘は言っていない…はず。
言い訳にしては、少し苦しいけれど。
「…そう。それは、嬉しい話だな。」
まるで自分の妹が褒められているかのように、ノエルは目を細めた。
「あの子はね、凄いんだ。私よりもずっと。」
ノエルは口を開いて、ヴェロニカとの幼少期について語った。
曰く、アルシェール家に仕えに来たヴェロニカと、ノエルはすぐに意気投合して、主従関係ではなく友人となったという。
ーそれも、ノエルの目線での話ではあるが。
ヴェロニカは年下ながらも利発で要領が良く、何よりも努力を欠かさない。
そのため、何をするにもノエルより良くできた。
ただ、一緒に習っていたバレエだけ、苦手そうにしていた。
踊ることが苦手というより、いつの間にか二人の間には体格の差ができていて、
人一倍小柄なヴェロニカがそれを恥ずかしそうにしていたという話だった。
ある日、バレエのレッスンの休憩時間に、戯れでノエルが王子様役としてヴェロニカをリフトした。
その時にヴェロニカは本当に楽しそうに笑ってくれて、それ以来のびのびと踊ることができたようだった。
バレエの先生にはしっかりと見つかって、ちゃんと注意はされたが、
ノエルはそこでズボン役の資質を見つけてもらったことも事実らしい。
「…ヴェロニカちゃんは、恩人なんだ。」
「何が得意なのかも、どんな役が似合うのかも、よく分からなかった私の。」
「ほんの小さな個性を見つけてくれた。」
「あの子に悪いところは、たくさんあるよ。
周りのことが見えすぎて、いつも自分を後回しにするし。自分の限界を知らないで、無理をするし…」
「でも、優しくて、頑張り屋さんで、良い子なんだ。」
「…ええ。」
私は小さく返事をすることしかできなかった。
(…恩人だと思っているのは、きっと、ヴェロニカ様も同じ。)
新興貴族であるエーデル家の名誉や発展のため、きっと、自分を追い詰めて生きていた方。
優秀でなければ、優秀である自分でいなければ価値がないと思い込んできた彼女にとって、
ノエルの存在は光であり、そして鎖のようなものでもある。
道具や商品になる覚悟ができたのに、唯一、自分が人間であることを忘れさせてくれない存在。
(それはそれで、残酷なのかも知れない…。)
アルディエ家でのユリウスの言葉を思い出す。
『彼女の本質は、決して悪人ではない。』
『…ですが。』
『そこに、あの方の難しさがあります。』
『特に、ノエル様が関わると余計に難しい。』
『あの二人の関係は、他者が簡単に入っていけない複雑な何かがあります。』
(…確かに…)
ノエルは、もしかすると。
ヴェロニカ一人の「王子様」でいたかったのかもしれない。
けれどヴェロニカは、ノエルを皆の憧れとして輝かせたい。
二人はお互いを大切に思い合っている。
だからこそ、すれ違ってしまうのかもしれない。
それがきっと、あの新入生コンサートでの演奏の違和感に繋がっていたような…
(…私がこの二人の間に入っていける余地は無いけれど。)
(この二人、心穏やかに幸せに過ごせる日が来るといいのに…)
「私はずっと、音楽院でヴェロニカちゃんと歌劇で組みたかったんだ。」
ノエルは少しだけ空を見上げた。
夕暮れはゆっくりと群青へ溶け始めている。
「でも、ずっと断られていてね。」
どこか懐かしそうな声。
「最後の聖セシリア祭で、ようやく組めることになった。」
そう言って微笑む。
「……なのに。」
その笑顔は少しだけ揺らいだ。
「いざ本当に相手役に決まったら、すごく怖くなったんだ。」
私は静かに目を見開いた。
怖い。
その言葉は、私の知るノエルから最も遠いもののように思えた。
「もし、期待に応えられなかったらどうしようって。」
小さく笑う。
「変だよね。」
「私は、ずっと自分の役割を知って…舞台に立ってきたのに。」
夕風が吹く。
薄翠の髪が揺れた。
「……ずっと怖かったのは、きっとヴェロニカ様も同じなのかもしれません。」
私がそう言うと、ノエルは少し驚いたようにこちらを見た。
「もしかしたら。」
私は言葉を選びながら続ける。
「ようやく今、ノエル様の光と向き合えるようになったのかもしれません。」
ノエルは何も言わなかった。
けれど、その横顔はどこか寂しそうだった。
「……そうかもしれないね。」
小さな声だった。
しばらく沈黙が続く。
やがてノエルはふっと肩の力を抜く。
「ありがとう。」
「後期が近付いてきたら、不安になっちゃって。」
少し照れくさそうに笑う。
「だから、誰かに聞いてほしかったんだ。」
私は思わず微笑んだ。
「その役目を果たせたのなら光栄です。」
「ふふ。」
ノエルは楽しそうに笑う。
そして。
「……うん。」
何かを決めたように頷いた。
「私は卒業したら――」
そこまで言いかけた時だった。
「ノエル様。」
アルシェール家の従者が静かに近付いてくる。
「馬車の準備が整いました。」
ノエルは瞬きをしてから、小さく苦笑した。
「タイミングが良すぎるなあ。」
その表情はどこか晴れやかだった。
「続きは、また今度。」
そう言って立ち上がる。
私は慌てて頭を下げた。
「本日はありがとうございました。」
「こちらこそ。」
ノエルは穏やかに微笑む。
「後期になったら、またよろしくね。」
夕陽を背に歩いていく後ろ姿は、やはりエトワールらしく美しかった。
けれど。
先ほどまで見ていた姿を知ってしまった今は。
その背中が少しだけ、小さく見えた。
――卒業したら。
ノエルは、何を言おうとしていたのだろう。
馬車が遠ざかる音を聞きながら、私は空を見上げる。
アリアも。
ヴェロニカも。
ノエルも。
皆、自分の未来を見つめている。
では。
私は――。
セレナ・ルクレツィアとして。
これから何を目指したいのだろうか。
夏の終わりの風が、静かに頬を撫でていった。




