32
夏休みに入り、実家へ帰ってから更に数日が経った。
そして今日、私はとある場所へ向かっている。
ルクレツィア家の小さく質素な馬車とは正反対の、大きく豪華な馬車。
深い紺色の座席は柔らかく、揺れもほとんど感じない。
窓枠には細やかな装飾が施され、香木の落ち着いた香りまで漂っている。
……乗り心地が良すぎて、逆に居心地が悪かった。
(どうして、こんなことに……)
私は小さく息を吐き、向かいの座席へ視線を向ける。
そこには、当然のような顔で本を読んでいる人物がいた。
優雅で、自然体。
この空間に馴染みすぎている。
この馬車も、この空気も、彼にとっては日常なのだろう。
一方の私は、未だに落ち着かない。
その原因は、二日前の夜に遡る。
あの日。
夕食後、私は珍しく母の寝室へ呼ばれた。
「……お母様?」
部屋へ入ると、母はソファへ腰掛けたまま静かに微笑んだ。
「いらっしゃい、セレナさん。どうぞ座って」
寝室だというのに、室内はどこか仕事部屋のように整然としていた。
譜面。
書きかけの手紙。
開いたままの楽譜。
化粧台には最低限の装飾品しかなく、代わりに古いメトロノームが置かれている。
―お母様らしい部屋だな、と思った。
私が向かいへ座ると、母は少しだけ言葉を選ぶように沈黙した。
「……セレナさん」
「はい」
「驚かないで聞いてちょうだい」
その時点で、少し動揺してしまった。
母は基本的に回りくどい言い方をしない。
だからこそ、前置きがある時は大体大きな話なのだ。
「アルディエ家から、お手紙が来ています」
「……お手紙?」
「婚約の打診よ」
「…………え?」
一瞬、意味が分からなかった。
婚約。
今、お母様はそう言ったのだろうか。
「こ、婚約って……誰と…でしょうか…」
聞き返した瞬間、お母様がほんの少しだけ困ったような顔をする。
「ユリウス様、とのことだけれど」
「……。」
頭が真っ白になった。
「安心して。まだ正式な話ではないわ」
「向こうも“候補として”という段階だそうよ」
「候補でも十分大事だと思うんですが……」
「それはそうね」
あっさり肯定された。
私はしばらく言葉を失ったまま俯く。
アルディエ家は、音楽、芸術、劇場、出版、投資――様々な事業へ関わる子爵家だ。
一応、家格としては釣り合っている。
けれど正直、家の規模も影響力も、ルクレツィア家とはかなり違う。
「知っている方?」
お母様は少し意外そうに首を傾げた。
「……はい。音楽院の先輩です」
「まあ」
その一言だけだった。
けれど、お母様は何かを察したように小さく目を細める。
私はなんとなく居心地が悪くなって、視線を逸らした。
「断ってもいいのよ」
「……え?」
「あなたの人生だもの」
その言葉に、私はゆっくり顔を上げた。
母は真っ直ぐ私を見ていた。
「音楽家として生きることも、結婚することも、本来は誰かに決められるものではないわ」
「我が家は今、家長が不在でしょう?」
「成人済みの後継者も、帰国の目処が立っていない。」
「……断る理由なら、いくらでも作れます」
静かな声だった。
けれど、その奥に強い実感があるのが分かる。
かつて、“女性作曲家”としての道を閉ざされた人の声だった。
私は顔を上げ、馬車で迎えに来てくれたユリウスへ視線を移した。
家格も妥当。
年齢も近い。
結婚によって、両家にとっての利点もある。
(……これが、“ご縁”っていうものなのかもしれないし……)
(ユリウス様も、悪い方ではない)
(むしろ、良い方だけど……)
今だって、私が緊張しないよう気を遣っているのだろう。
彼はまだ、婚約の話題へ一切触れてこなかった。
(……でも)
(アリアは、妙にユリウス様を警戒しているのよね)
(私とユリウス様が話した日は、ノクティス先生も通信で機嫌が悪いし……)
(でも、お母様を安心させたい気持ちもある…)
いくら考えを巡らせても、「私」がどうしたいのか、わからなかった。
馬車は静かに揺れ続ける。
向かう先は、アルディエ家。
まるで、答えの出ない未来へ運ばれていくみたいだった。




