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静かな朝を迎える。
ルクレツィア家に来てから数日が経ち、私は「安心」が幸せなのだと実感していた。
使用人の数はごく少なく、皆どこか気心が知れている。程よい距離感が心地良かった。
母のクラウディアは、優しく、厳しい人だった。
期末試験で張り詰めていた私の寝不足や喉の疲れを瞬時に見抜き、朝食の時間や紅茶の種類まで変えてくれた。
そして細やかに世話を焼いてくれる一方で、妥協を許さない厳しさもある。
姿勢やマナー、言葉遣い――そして音楽に関しては、優しさと同じだけの熱量で、細やかに指導してくれた。
(……お母様とのレッスンの時間、好きだな)
セレナがどうして優等生なのか、少しわかった気がする。
美音だった頃の「私」とは違う意味で、母に認められたかったのだ。
母のような音楽家に、そして女性になりたくて、努力していたのだと思う。
その日の午後。
私は中庭に面した小さな温室で、次兄のマティアスお兄様と向かい合っていた。
「……焼けたぞ」
短い言葉と共に、小皿が目の前へ置かれる。
薄く粉砂糖のかかった、小さな焼き菓子だった。
「わ……綺麗」
「崩れやすい。先に食え」
「はい」
一口齧ると、さくり、と繊細な音がして、ほろりと口の中でほどけた。
「……美味しい」
「なら良かった」
マティアスお兄様は表情が薄い。
けれど、その声音には少しだけ安堵が混じっていた。
父親似なのだろう。
淡い青灰色の髪に、骨格のしっかりした長身。
ルクレツィア家にしては珍しく、男性的な印象の強い容姿をしている。
本人曰く、細面でどこか儚げなレオニードお兄様とは正反対らしい。
言葉遣いも職人らしく、簡潔だった。
『寸法が狂う』
『火が強い』
『仕込み直しだ』
そんな言葉を日常的に使う。
一見すると無愛想だけれど、本当は優しい人だということが、お菓子の味から伝わってきた。
素材の活かし方や、甘味の調節。
繊細な部分にまで、細やかな気配りが感じられる。
「……兄様は、お菓子作りがお上手ですよね」
「計量が好きなだけだ」
「計量?」
「菓子は誤魔化せない。分量と温度で全部変わる」
そう言いながら、お兄様は焼き色を確かめるように焼き菓子を割った。
「舞台も似てる。少し狂えば全部倒れる」
「……大道具のお仕事も、大変なんですね」
「まあな」
相変わらずの短い返事が返ってくる。
けれど、仕事の話をするお兄様は少しだけ穏やかだった。
ルクレツィア家の人達は皆、音楽への向き合い方が真っ直ぐだ。
表に立つか、裏に立つかが違うだけで。
紅茶を飲んでいると、ふとマティアスお兄様が口を開いた。
「そう言えば…最近流行ってるらしいな」
「え?」
「『白薔薇のカントール』」
思わず顔を上げる。
「あっ、知ってます。最近すごく人気の歌劇なんです」
「授業の合間にも話している人がいて……」
「……へえ」
お兄様は、何とも言えない顔をした。
「お兄様?」
「いや。まあ、人気なのは知ってる」
「実際、作品としては悪くない。」
どこか疲れたような声音だった。
「確か、外国の教会音楽家がモデルなんですよね?」
「悲劇のカントールのお話で……」
そこまで言ったところで、お兄様が静かにため息を吐いた。
「……悲劇、な」
「?」
そう言って席を立つ。
温室の隅に置かれていた書類ケースを漁り、数枚の紙を持って戻ってきた。
「ほら」
机へ置かれたのは、一枚の劇場フライヤーだった。
雪降る大聖堂。
白薔薇を抱く、銀髪の青年。
その横に、金色の文字で題名が刻まれている。
『白薔薇のカントール』
――奇跡の歌声を持つ青年レオ。
愛と陰謀、そして破滅を描く話題作。
「……綺麗」
思わず呟く。
すると兄様が、妙に冷めた声で言った。
「ちなみに、そのモデル。レオ兄さんだ」
「………………え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「えっ?」
「だから、レオニード兄さん」
「……えええ!?」




