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次の日。
私は、ルクレツィア家から迎えに来た小さな馬車に揺られながら、
ぼんやりと窓の外を眺めていた。
脳裏に浮かぶのは、昨夜のノクティス先生との会話ばかり。
(……結局、あまり眠れなかった。)
私は小さく息を吐く。
(——一度、情報を整理してみよう。)
まず。
ノクティス先生が男性であることを知っているのは、ごく一部の人間だけだということ。
何となく感づいている者もいるらしいが、
先生は、それが誰なのかまでは語らなかった。
確実なのは、まずアルディエ家。
『……と言っても、もう“あの家の関係者全員が知っている”って話でもないかな。』
『セラフィーヌ・ド・リュミエールの名前を聞いて、
私との関係が結びつく人は、わかるはず。』
先生の言葉を思い出す。
(……ということは。)
自然と、ユリウス様の顔が浮かんだ。
『エトワール制度を考案した人を、知っていますか。』
『——セラフィーヌ・ド・リュミエール。』
『ミレイユ・ノクティス……初代エトワールの母親です。』
(少なくとも、ユリウス様は知っている……。)
そして、意外だったのがアリアだ。
ノクティス先生によれば、
彼女は勘が鋭く、入学前の初対面の時点で、
すでに先生の正体を見抜いていたらしい。
(だから、先生の“淑女らしい仕草”が、アリアには妙に面白く見えてしまうのね……。)
彼女が笑いを堪える様子を思い出した途端、
少しだけ笑いそうになる。
『ただ……あの子にとっては、私の性別がどっちだろうと、
あまり大したことじゃないみたいだけど。』
『面白いよね。
セレナさんとアリアさん。』
『まるで違うタイプの歌手なのに、
時々、とても似ているところがある。』
私には、アリアと自分の共通点なんてよくわからない。
けれど。
確かに、ノクティス先生が男性だったとしても、
先生への気持ちが変わることはないと思った。
(驚いたのは本当。)
(……大きな秘密を知ってしまったのも。)
先生が自分を偽り、
エトワールになったことは紛れもない事実だ。
エトワールとして選ばれるのは、歌専攻の女子生徒のみ。
それでも——
ノクティス先生の歌声は。
壊れてしまいそうなほど儚いのに、
不思議と、人を包み込むような強さがあった。
あの神秘的な姿も、
触れれば消えてしまいそうな危うい雰囲気も。
紛れもなく、“歌姫”そのものだった。
(……“歌姫”って。)
(エトワールって、何なんだろう。)
「——ああ、そうそう。」
不意に、先生の声を思い出す。
『セレナさんって、
レオニードさんの妹さんなんでしょう?』
『お兄さんによろしく伝えておいてくれるかな。
彼は音楽院の後輩なんだ。』
『……はい。』
『……レオニードお兄様は、
事情があって今は帰国できないそうですが……お手紙でお伝えします。』
一度も会ったことのない兄の話に、
私は少し緊張しながら、知っている情報だけで会話を繋いだ。
すると先生は、
『……そうか。ふふ……。』
堪えきれないように笑みを零した。
『あはは……なるほどね。』
『相変わらず災難に遭っているようだ。彼らしいけど、お気の毒に。』
私は、曖昧に笑い返すことしかできなかった。
(……“相変わらず”って。)
(レオニードお兄様って、どんな方なんだろう……。)
以前、図書館で見た資料を思い出す。
レオニードの記録には、
何かを書き換えたような手書きの修正跡があり、
さらに、それを消そうとしたような痕跡まで残っていた。
胸の奥に、
小さな不安が広がる。
——その時。
馬車が静かに止まった。
従者が丁寧に扉を開き、
視界がゆっくりと開ける。
(ここが、ルクレツィア家。)
(——私の、家。)
代々優秀な音楽家を輩出してきたルクレツィア家は、下流貴族の子爵家だ。
突出した財を持つわけではない。
けれど、
文化・芸術、そして社交界に対して、
大きな影響力を持っている。
屋敷も馬車も決して派手ではない。
だが、細部に施された意匠は驚くほど洗練されていて、
この家の文化的な気風を静かに物語っていた。
「——セレナさん。お久しぶりね。」
穏やかで、
静かな声が響く。
(……この人が、私のお母様。)
クラウディア・ルクレツィア。
お母様が、
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
淡いアッシュブロンドの髪は、低い位置できっちりと編み込まれていた。
装飾を抑えたシンプルなドレス。
けれど、一目で生地の上質さがわかる。
柔らかく、身体に馴染みそうな布地。
鍵盤演奏のしやすさを重視していることが、私にもすぐに伝わった。
(……セレナの容姿は、お母様譲りなのね。)
「……お母様。」
緊張で、
自分の唇がわずかに震える。
「まあ。
少し見ないうちに、こんなに綺麗になって。」
お母様は、柔らかく微笑んだ。
「ええ、わかりますよ。」
「良いお友達や先生方に、恵まれているのですね。」
そう言って、
私の手をそっと両手で包み込む。
華奢な身体に似合わず、
指の骨はしっかりとしていた。
長年、鍵盤に向き合ってきた人の手。
(……お母様の手。)
(力強くて、温かい。)




