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朝の空気は、ひどく澄んでいた。
窓を開けると、やわらかな光が部屋に流れ込む。
昨日の不安が嘘みたいに、世界は整っていた。
(……夢、じゃない)
鏡の前に立つ。
そこにいるのは、やっぱり——セレナ・ルクレツィアだった。
ゆっくりと、息を吸う。喉に意識を向ける。
(……出る。)
音の位置も、息の流れも、全部わかる。
(……すごい)
この体は、よく訓練されている。無駄がない。迷いもない。
——“上手い歌”が、最初から入っている。
(でも)
昨日の感覚が、蘇った。
舞台の上。拍手。
そして——何も残らない感覚。
ため息をついた後、自分を奮い立たせた。
大丈夫、やるって決めたんだから。
身支度を整え、音楽院へ向かう。
石造りの門。広い中庭。
行き交う生徒たちは、どこか誇らしげで、穏やかながら少しだけ張り詰めている。
——ここが、舞台。
教室に入ると、視線が集まった。
「セレナ様」
「お加減はもうよろしいのですか」
学友の丁寧な声。適切な距離。
これだけで、私の立場や学校生活がはっきりとわかる。
「ええ。ご心配をおかけしました。」
自然に、言葉が出る。セレナの声、表情で。
(……ほんと、この姿も、声も便利)
少しだけ、皮肉に感じた。
「では、始めましょう」
教師の声で、教室の空気が締まる。
「本日は基礎発声と、簡単な新曲視唱を行います」
順番に名前が呼ばれていく。
誰もが上手い。音も、技術も、申し分ない。
「セレナ・ルクレツィア」
名前を呼ばれて、私は前に出た。
視線が集まる。
——慣れているはずなのに、少しだけ違う。
大丈夫。大学でも、この科目には自信があったから。
初見の譜面を使って、正確な音程を歌う訓練をする授業だ。
息を吸う。
声を出す。
——完璧だった。
音は正確で、響きも美しい。
無駄がない。揺れもない。
歌い終えると静かな拍手が聞こえた。
頷く教師。
——そして。それだけ。
(……ああ)
胸の奥が、冷たくなる。
「次。アリア・フェリス」
その名前で、空気が変わった。
教室の隅から、一人の少女が前に出る。
飾り気のない髪。
素朴な雰囲気ながら、瞳が澄んでいて、不思議な輝きを感じる子だった。
——目が離せなかった。
彼女が、息を吸う。
歌が始まる。
誰かの呼吸が止まる。
次の音を、表現を、聴きたくなってしまう。
教室の温度が、少しだけ変わった。
誰かが、息を呑む。
(……なんで)
技術なら、私の方が上のはずなのに。
歌が終わり、拍手が起こった。
さっきよりも、少しだけ大きい。
授業が終わると、あの子がそっと私に近付いてきた。
「あの…」
「……すごく、綺麗でした」
アリアが、こちらを見て言った。
まっすぐな目。
悪意なんて、ひとつもない。
なんて純粋な瞳、間違いなくヒロインの輝きを持っている。
私は、いつも通りの完璧な笑みで
「ありがとうございます」
静かにそう返した。
(この子には、敵わない運命なのかな)
胸の奥で、静かに納得する。
(努力、正しさ…それだけじゃ、どうにもならない運命もあるのかも)
(……でも、それが何)
視線を上げて、アリアを見る。
(私は、セレナをやりきってみせる)
負ける役でもいい。
選ばれなくてもいい。
(この役、ちゃんとやりきりたい。)
「新入生コンサートの選出、頑張りましょうね。」
先ほどと変わらない変わらない微笑みで、私はアリアに話しかけていた。
アリアの肩が、わずかに揺れた。




