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目が覚めたとき、最初に感じたのは軽さだった。
体が、やけに軽い。
痛みもない。あの階段の感触も、もうどこにも残っていない。
ゆっくりと息を吸うと、知らない香りがした。
甘くて、柔らかくて、どこか現実味がない。
天井は高く、淡い色で塗られている。
実家の天井でも、大学の寮の部屋でもない。
(……ここ、どこ)
声に出そうとして、やめた。代わりに、視線だけを動かす。
壁、カーテン、家具。
どれも整いすぎていて、舞台の大道具みたい。
ゆっくりと体を起こすと、驚くほど、楽に動いた。
(怪我……してない?)
あれだけ転がったはずなのに。
違和感の正体を探すように、私はベッドから降りた。
足音が、軽い。
——自分のものじゃないみたいに。
部屋の奥に、大きな鏡があった。
吸い寄せられるように、近づく。
そこに映っていたのは——
見知らぬ少女だった。
淡い銀色の髪。
光を含んだような、青い瞳。
陶器みたいに整った、白い肌。
(……誰)
問いかけたはずなのに、鏡の中の少女が同じように口を動かした。
当たり前のことなのに、ひどく現実感がなかった。
指先で、自分の頬に触れる。
そのときふと、名前が浮かんだ。
セレナ・ルクレツィア。
心臓が、強く鳴る。
(……え?)
知っている名前だった。
ついさっきまで、資料で見ていた名前。
自分が演じたいと思った、あのキャラクター。
優等生で、才色兼備で、完璧で。——そして。
——最後まで、
誰にも選ばれない役。
あの子は、いつも正しい。
誰よりも努力して、誰よりも整っていて。
それでも、選ばれない。
最後に選ばれるのは、
決まって——
ノックの音がした。
私は反射的に振り返る。
「セレナ様、失礼いたします」
扉が開き、数人の女性が入ってきた。
揃いの服装。落ち着いた所作。
……たぶん、使用人。
そのうちの一人が、安心したように微笑んだ。
「お加減はいかがですか。ご無理をなさらないでくださいね」
「……はい」
自然に、言葉が出た。
声が違う。
やわらかくて、澄んでいて、——綺麗すぎる。
(……これが、“セレナの声”)
胸の奥が、ざわついた。
「本日はお休みいただきますが、明日には登校も可能とのことです」
「登校……」
「はい。音楽院へ」
音楽院。
その単語だけで、景色が浮かぶ。
聖セシリア音楽院。
広いホール。整然と並ぶ生徒たち。
楽器の音、数々の譜面、歌声。
——そして。
ひとりの少女。
明るい髪。
飾らない姿。素朴な声。
なのに、目が離せない。
(……アリア)
名前が、自然に浮かぶ。
ヒロイン。天性の歌声。
そして——“選ばれる側”。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
小さく、息を吐く。視線を落とすと、白い手が目に入った。
細くて、綺麗で、何もかもが整っている。完璧な子だけど…
答えは、知っている。この物語の中で、セレナ・ルクレツィアは——
(報われない)
でも。
「負けるからって、何」
言葉にしてみると、少しだけ軽くなった。
(この子は、ちゃんとやってる)
セレナは、すごく努力をしてる。
正しいやり方で。誰よりも、きちんと。
(それで負けるなら)
それが私の役割なら、
(逃げずに、やろう)
(結果が変わらなくても、後悔しないように)
鏡の中のセレナが、静かにこちらを見ていた。




