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「…あの、アルディエ様…」
「ユリウス、とお呼びください。セレナさん。」
「いえ…それは流石に…。」
「……。」
「…………。」
「……ユリウス様。」
「…ええ。セレナさん。」
私とユリウスは、学内のコンサートホールから、ゆっくりと寮に向かって歩いていた。
こんな遅い時間に、この道を歩くのは初めてだった。
(——そういえば)
ユリウスと初めて会ったときのことを思い出す。
「専攻は芸術運営です。家業が劇場の運営や興行に関わっておりまして」
「学院、教会、劇場——国内ほぼすべての公演に目を通しています」
(この方は、音楽院についても詳しいはず。)
「——あの…エトワールとは、何なのですか。」
私は、彼に問いかけてみた。
「…エトワールの歴史は、意外に新しいです。」
「前身のような存在もありましたが…現行の制度になって、7年でしょうか。」
「初代のエトワールは、ご存知ですね。——ミレイユ・ノクティス先生です。」
「その後、3年空位が続いて——」
すらすらと、ユリウスから言葉が出てくる。
まるで辞書を引いたみたいだ。
「ええ、存じ上げております。」
「どうして、エトワールという制度があるのでしょうか。」
続けて私は尋ねた。
「……女性の音楽家の社会的地位向上について。」
ユリウスは、静かな声でそう答えた。
夜風が、木々を揺らす。
ホールの灯りはもう遠く、石畳を踏む靴音だけが、静かに響いていた。
「例えば、歌姫は称賛される。けれど同時に、“消費”もされる。」
「芸術家としてではなく、“美しい女性”として扱われることも多い。」
「……。」
私は黙って耳を傾ける。
「ですから、“女性音楽家を守る象徴”を必要とした。」
「技術、人格、教養、品位——その全てを備えた存在として。」
「それが、エトワール……?」
「ええ。」
初めて、ユリウスの声に感情の温度を感じた。
「…でも。」
「結局、その制度が“選ばれる女性像”を作ってしまう側面もあるのでは。」
ふと浮かんだ疑問を、そのまま口にする。
「…確かに。その危険性は、常にあります。」
「近年は、特によく言われるようになりました。」
「ですから、今代のエトワールがあの方なのでしょうね。」
——ノエル・フォン・アルシェール。
確かにあの人なら、“選ばれる女性像”とか、そんなものを超越している。
でも、楽屋で見たエトワールの素顔は
後輩の暴走に手を焼き、
ほのかな花の香りを纏って笑う、年相応の少女に見えた。
——少なくとも、
舞台の上の“偶像”には見えなかった。
(——なんだか、すっきりしない。)
「セレナさんが、エトワールに興味を持っているなんて、嬉しいですね。」
「…いえ、私は…」
「——いいえ。」
きっぱりとユリウスが言葉を遮る。
「既に、動き出しています。」
「貴方は必ず、エトワールに向かう道を歩む。」
胸の奥が、ひどくざわついた。
「…私は、」
気づけば、言葉が口をついていた。
「消費される存在には、もうなりたくありません。」
それは、セレナの声ではなかった。
忘れていたはずの、子役時代の私の声だ。
——けれど。
その声に、今の私の声が静かに重なっていく。
「私が目指しているのは、“自分の歌”の追求です。」
「でも、私が目指している“歌”の道にエトワールがあるのなら——」
「そのときは、全力で向き合うだけです。」
「——ええ。」
ユリウスの瞳が、静かに細められる。
「貴方をもう、誰にも消費させません。」
「私たちが——いえ、私が、貴方を守りますから。」
彼の声は、どこか寂しげだった。




