18
「おはようございます、アリア。」
「おはよう、セレナさん。」
楽屋入りをした後、
私とアリアは、いつも通りに——あの日から毎日交わしている様に——
朝の挨拶を交わした。
でも、私の癒しの時間はそこで終わった。
本番当日は、とにかく慌ただしい。
更に、それだけじゃない。
(アリアへの嫌がらせが、まだ続いている…)
アリアの才能が妬まれる、というのはわかる。
ただ、その手口が…
(……アリアを狙ってる、というより)
(私たちを、仲違いさせたいような…?)
(——誰が…何のために、こんなことを)
(でも、大丈夫。)
(対策は打ってる。それに…)
案の定、第一部の合唱の舞台の退場の手順を、アリアは誤った情報で教えられていた。
だが、舞台袖に待機していたノクティス先生の機転で、事なきを得た。
(先生達が…少なくともノクティス先生が、この事態をとっくに把握してる。)
それにしても。
「ノクティス先生は、本番の合唱指揮者じゃなかったのですね。」
私は楽屋へ捌ける途中、先生に話しかけてみた。
「……。」
「……ふふふ。」
何拍かの沈黙の後、笑みが返ってきた。
その笑顔は女神の彫像の様に優しく
微笑を漏らす声は天上の響きのように美しかったが、
有無を言わせない、冷たい圧。
(……やりたくなかったんだ。)
気になるけど、何だか怖くてそれ以上は聞けない。
(でも、先生の顔を見たら、安心した。)
その時——
「…セレナさん、アリアさん。君たち、着替えの前に彼の演奏は袖で聴いておくこと。」
真面目な表情でノクティス先生が私たちを引き留めた。
(…彼?)
——作曲専攻、カミーユ・ルグラン。
ラメント・クラヴィーア独奏曲「クラヴィア・モルティス」
急に客席から不穏なざわめきが聞こえた。
「…ルグランですって」
「まさか、あのルグラン家…?」
「本気で『死の鍵盤』なんて曲を作ったのか?…」
そして、カミーユが袖から登場すると、
そのざわめきは更に大きくなった。
長身で、目を引く姿。1年生には見えない落ち着き。
黒く艶やかな髪の毛はおかっぱ頭のように真っ直ぐ綺麗に切り揃えられている。
深い紫色の瞳、涼しげな目元。
舞台衣装は、裾が長く、異国の長袍のような衣。
(確かに、この音楽院では見ない雰囲気の人…)
演奏をする前から、会場が異国情緒溢れる空気に包まれた。
(”カミーユ・ルグラン”は本名…?)
同じ学年の生徒とはいえ、私は作曲専攻の生徒とはあまり接点がなかった。
それに、この、ただならない彼の雰囲気。
ノクティス先生が「鑑賞して勉強しなさい」というのも頷ける。
カミーユは全ての客席のざわめきを聞いているような、聞いていないような涼やかな表情で、
足音もなく静かにステージ上に登場した。
拍手は少なく、会場はどこか白けた雰囲気だ。
彼は礼をする。
静寂の中、ゆっくりと椅子に腰掛け——
次の瞬間、音が空間に落ち、そして広がった。
(…こんな音、初めて聞いた。)
その楽曲は、タイトルとは正反対に、穏やかで美しい。
優雅さと異国風のミステリアスな雰囲気が同居している。
しかし、時折唐突に不思議な変拍子が高音で入ってくる。
それがただ美しいだけではない、この楽曲のスパイスのような役割を果たしていた。
「…セレナさん。」
私が変拍子に反応したことに、ノクティス先生が気がついた。
そして
「気になる?……あれはね」
「処刑器具が、動く音」
怖がりなアリアに聞かせまいと、先生は私の耳元で囁く。
私はぞっ…と背筋が冷えた。
「…大丈夫。彼自身は、すごく良い子だから。」
「きっとあなた方は、彼と関わることになる。」
そう言うと、ノクティス先生は穏やかな笑みを携え、「淑女モード」を起動していた。
こうなった以上、詳細な言葉は期待できない。
だんだんわかってきたことではあるが、
先生がこの仮面を付ける時は、自分を「何か」から守っている時だ。
あっという間にカミーユの出番が終わり、
彼は舞台袖に戻ってきた。
そして、私たちに向かい合うと両手の掌を合わせて深々と礼をした。
見慣れない所作に私たちが見惚れていると、
「……さて。」
ノクティス先生は一言で私たちを現実に引き戻し、私たちは足早に楽屋へ向かう。
——出番が、近い。




