「24」(結)
夜空には星々がチラチラと瞬き、一般人が寝静まる夜ふけとなってもレースは中断されることはなく、淡々と進行していく。
街灯が照らす公園内は静寂に包まれ、各チームのテントの灯りも消えている。ランナーの影だけが公園の中をひっそりと蠢いていた。時刻も深夜に差し掛かると疲労もピークとなり、倦怠感にも似た空気がランナーたちの間に漂い始めている。
七海たちのチームも例外ではなかった。日が変わる前から交替で仮眠をとってはいたが充分ではなく、徐々に蓄積した疲労と眠気からのストレスが七海たちを苛立たせていた。
「おい、奈緒。そろそろ時間だぞ」
「……あと1分」
「早く起きろよ」
「いやだあ……。もう、ねむい……」
「それは皆同じだから。もうちょっと頑張ろうぜ」
「うう……」
もうすぐ坪井が戻ってくるというのに、ここにきて愚図り出した奈緒を、七海は子どもをあやすようにして何とか起こそうとするが、それでも奈緒はまだ起きないでいる。怒鳴りたいところだったが、奈緒の次を走る桜以外は眠っている。声をあげるわけにもいかなかった。
奈緒の様子を見かねた桜が、七海に言った。
「ねえ、七海。相沢さんグロッキーみたいだから、この周は私が相沢さんの分を走るよ。ちょっと休ませてあげよ」
「ダメだよ。眠いのは皆一緒。こういう時に弱さを見せるのが奈緒の悪い癖だ」
相沢奈緒は意外に脆い。
これまでの付き合いで、奈緒の性格はだいたい把握している。辛いことや苦しいことがあると、すぐ投げ出そうとする。苦しいとやたら訴える。第一、人間の力を遥かに凌駕する守護者が、たかだか一泊行事で何をぼやくのか。
これまでの疲労と奈緒への怒りから、七海の精神状態は使い魔との交戦時に近い状態になっていて、七海は突然、強引に奈緒の体を起こした。
「おい、奈緒。俺の目を見ろ」
七海は奈緒を引っ張り起こすと、ピシャリと両側の頬を叩くようにして手を添え、ゴツンと額を重ね合わせた。七海の突然の行動に、桜が呆気にとられている。
「いいか。皆、眠いの我慢してんだ。いつまでも愚図ってんじゃねえよ」
「……」
「行けるだろ?」
「……」
「どうなんだ。行けるのか行けないのか」
七海の問い掛けに、奈緒は顔をあげると鋭く七海を睨みつけて、七海の両頬をつねってきた。奈緒の指先には万力のような力が込められ、あまりの痛さに七海は声も出せなかった。
「あだ、あだだだだ……!」
「な・に・す・ん・の・よ!痛いじゃないのよ!」
「ごめ……、すまん。つい、思わすやっちゃった。ごめん、ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃないでしょうが!」
「わかった。わかったから、つねるのはもう勘弁して……!」
バカと言って奈緒が両手を離すと、七海は涙目になってうずくまった。「バカ」とまた吐き捨てるように言うと、奈緒は憤然とした様子でテントから足早に出ていった。
「いちちちち……」
「何やってんのよ。アンタら」
奈緒は昼間の会話では、桜にそれほど親密ではないことを匂わせていたが、今の夫婦漫談のようなやりとりから、単なる親戚関係だけではないものを感じていた。ただ、今の情けない七海を見ていると、その関係性に疑問や嫉妬よりも先に、呆れるという気持ちの方が強かった。
※ ※ ※
「ああ、もう!七海君のバカ!ムカつく!」
奈緒は坪井からタスキを受けとると、ブツクサ呟きながら 夜の公園内を風のように疾走していた。
「汗臭い。帰りたい。お風呂入りたい」
『……ぶつくさ言うな。変に思われるぞ。それに、普段は誰よりも鍛えているはずだろ』
フワリと光の玉が近づき、奈緒の肩に乗ると光が消え、シオンが姿を現した。今まで奈緒の鞄で様子を窺っていたのだが、人が多く奈緒と接する機会がなかった。
「眠いのは眠いし、疲れるのは疲れるの!それなのに、七海君のバカ。はやく、お風呂はいりたい」
『少し声を抑えろ。おいおい、何も腕を振り回さなくたっていいじゃないか。今のランナー、驚いてたぞ』
「皆、疲れてるから同じよ。聞いてない見てない。私みたいに、死んだ魚みたいな目をして走ってる」
疲れで苛立ちのあまり、酷いことを発しながら奈緒は走る。
その横で、シオンは追い抜いていくランナーたちの表情を追った。
確かに誰もが疲れきり、表情もなくしてうつむき加減に黙々と走る。騒ぎながら走る奈緒を気にとめた者も少数のようだった。
深夜に背を丸め、重い足取りで前に足を進める彼ら。
彼らの先に何が待っているのか。
何故、彼らはそこまでして走るのか。
いったいこれはなんの光景だろうかと、シオンのなかで奇妙な感傷がわいてランナーたちを見送っていた。
――ここの世界の人間は変わっているな。
アルとともにこの世界に来てから5年になるが、マラソン大会、しかも24時間走るという奇妙な大会を見るのは初めてだった。奈緒も生前の須貝美由紀も買い物やお喋りが好きで、この種のイベントに参加したことがない。
以前に仕えていたモンブラウ公国でも、「不寝の行」といって夜通し行われる魔導士の訓練がある。しかし、それはあくまでも訓練、修行であって趣味でやるものではなかった。
――それをお金を払い、趣味として自ら進んで行うとは。
奈緒が一人の老ランナーを抜き去っていく。
彼は独りで朝から休むことなく、黙々と走り続けていた。
――苦しいことも楽しめるだけの余裕が、この世界にはあるのか。
シオンは奈緒が走り終わるまでずっと黙ったまま、ランナーたちが走る光景を眺めていた。
※ ※ ※
「……ただいまあ」
桜と交替し、呻くような声を出しながら奈緒がテントに入ると、また強烈な眠気と疲労が思い出したかのように戻ってきて、そのまま倒れ込むように横になった。
シオンは奈緒の体を盾にして、そっと鞄の中へ戻っていくのが、眠い目でぼんやりと映った。
終わった。これであと2時間は寝られる。
あとは睡魔に誘われるまま、眠り落ちるだけなのだが、周りの何やら騒がしい声に眠りが遮断され、奈緒は目を開けた。
見ると坪井と七海がパンフレットを覗き込み、いつの間にか何人か起きていて、田代や小松らがテントの外を睨んでいる。視線を追うと、どうやら余所のチームのテントらしかった。
「何かあったの?」
「見ろよ、あいつら」
坪井が憤慨した様子で、田代たちが睨んでいるテントに顎で示した。
深夜の割にはやけにテンションが高く騒がしい。確か学生の集まりだったはずだが、人数は昼間よりかなり増えているようだった。その中である光景を目にして、奈緒は目を疑った。
今まで走っていた学生からタイム計測用のチップを受け取り、新しく来た学生がそれを靴につけ直している。
「全員交替して走ってんだよ。しかもあいつらは今、3位で入賞ラインに入ってんだぜ。クソッ」
普段は穏やかな田代が、吐き捨てるように悪態をついた。
順位は一時間ごとに集計されたA3サイズの用紙が、ステージに設置された掲示板に貼り出される。
24時間マラソンのルールでは、8人参加という決まりだけである。8人全員交替するから16人で走っていることにはならない、というつもりなのだろうが、決められた人数で走るというのは暗黙の了解で、記録もとるし、入賞チームは表彰される。
ちゃんとしたレースなのだ。
それに夜中、どこかで熟睡するつもりなら、そもそも何故この大会に参加したのかわからない。
それこそ、キャンプにでも行けば良いのに。
「どうする。運営の人に言いにいく?」
吉岡が七海に言った。会場の隅のテントで、委員会の役員が交替で詰めている。自然、周りの目が七海に集まり、七海は腕を組んだまま、じっとパンフレットに目を落としていた。
「いや、言いにいかない」
「でも、それじゃあ……」
「あいつらに勝つぞ」
七海は顔をあげ、奈緒たちを見渡しながら決然と言った。
「正直、順位とか勝つ負けるとか二の次だったが、あったあきた。とにかくあいつらより速く走って、あいつらに勝つ。入賞させねえ。俺たちは今30位だが、俺たちならやれる」
七海がそこで口をつぐんで、起きているメンバーを見渡した。うんと小松が大きく頷いた。
「相手が慢心し、油断したところを突くか。そちらのが痛快だな」
小松が言うと、暗闇のなかからそうだと同調する声がそこかしこからあがり始めた。坪井などは「見返してやろうぜ」と、勝手に息巻いている。
盛り上がる七海たちに対して、奈緒は大人げないと思わないでもなかったが、自分らが眠い思いをしているのに向こうは熟睡。これがお気楽にレースを楽しんでいるなら、七海も腹を立てなかっただろうが、明らかに入賞を狙っている。
彼らの行動は、奈緒にも不愉快だった。
「……やりましょ」
このチームにはプロレスラーや格闘家など稀有な人材を抱えているが、あくまで足の速さを競うイベントである。
彼らと同じかそれ以上なら余所のチームに掃いて捨てるほどいる。人間レベルでは到底追いつかない。
だが、他のチームと異なる点は、七海と奈緒がいることだった。
奈緒が七海に向かって頷くと、七海は視線を合わせて、目だけで頷いてみせた。
※ ※ ※
「坪井君、もうちょっとだよ!」
駆けてくる坪井に声援を送ると、奈緒はテントのなかで、チラチラと七海と吉岡に視線を送っている。おそらく、桜でラストになるというのに。
「植松さん!」
奈緒が大声を張り上げて、桜に呼びかけると、我に返って奈緒に向いた。
奈緒は拳を突きだしていた。
――最後は頼むよ。
奈緒はタスキを受け取ると、ピョンとジャンプし、軽やかに疾走していく。疲労感はあるものの、あれほど奈緒を悩ました眠気はとうに消えている。
大会終了まであと10分を切っていた。
「あったあきた」七海たちは、気合いを入れ直し、猛追を仕掛けていた。順位も急激に上がり、5位までにあがっている。あの学生連中の背中が見えていた。
「あと2人……!」
300メートル先で5位の選手を抜き去ると、疲れを感じさせない勢いで、そのまま風のように奈緒は疾駆した。
学生の背中が見える。
元は陸上部らしい体つきとユニフォーム姿だが、吉岡と比べれば、筋肉もかなり弛んでいたし、肌にも日頃の不摂生を感じさせた。
「そんなんでズルなんてするから……!」
奈緒はフッと息を吐き、足に力を込めた。
いつ以来だろう。
ここまで本気になったのって。
残りは1分もない。
奈緒は猛然とした勢いで追いつくと、学生を鮮やかに追い抜いていった。
そして、交替地点で待機していた桜にタスキを渡し、初速で学生らのチームを数百メートル突き放した時、ピストルが空に鳴り響いた。
“皆様、お疲れ様でした!24時間マラソン終了いたしました!終了です!終了です!”
拡声器で運営委員が四方に告げて回る中、七海たちのチームは満面の笑みを浮かべながら、アンカーの桜に集まっていった。誰もが興奮した顔をしていた。
意地が悪いと奈緒は思う。
勝手に敵視して、盛り上がって。
でも、腹が立ったのは確かだし、運営に文句言ったところで反省もしないだろう。
だから、こうでもしないと気が済まない。
「やったぜ。この野郎!」
写真部の部長の一言に、七海も吉岡もチーム全員、誰もが獣が吠えるように、歓喜の叫びを放っていた。その中には奈緒も混ざっていた。奇妙なリズムを口にしながら、円陣をつくって、原始人のように跳ねている。
追い抜かれた学生らは「なんでコイツら盛り上がってんだ?」と言わんばかりに、怪訝そうな視線を送りながら、つまらなそうにテントへと戻っていく。閉会式を前にして、そそくさと帰り支度を始めていた。
奈緒は横目にしながら思う。
あんなんだから負けたくないのだと、相沢奈緒は叫んだ。
心の底からさけんだ。
※ ※ ※
ありがとねと桜が奈緒の傍で言った。
「最後の追い上げ、凄かったよ。大したもんね。何か部活やってんの?」
そんなことないよとだけ言って、奈緒ははにかんで誤魔化した。
「私が駄目でも、植松さんがあの走りで一気に追い抜いてたよ」
「まさかあ」
「絶対そうよ。私の……」
「私の、何?」
――私の恋と同じ。
不意にそんな言葉が浮かんで苦笑いする奈緒に、何も知らない桜も、釣られて笑い声をあげた。
そうだ。
私がどんなに黒澤七海を想っていても、この女と七海が本気を出せば、すぐに私は置いてきぼりにされてしまう。
だったら、桜にズルいこともしない。挑発もしない。ただ放置し、互いの想いがすれ違うのを見ているだけにして、この女に伝えることもしない。
奈緒の泥のように粘着した心情に気がつかないまま、桜は無邪気に明るく笑っていた。部長や田代にハイタッチしにいく桜の広い背中を見送っていたが、ふと視界の端に吉岡がスマホを片手にチームから離れて行くのが見えた。
興奮した様子で何事か話している。奈緒は気になって吉岡の後についていった。吉岡は片付けを始めたステージ脇の順位表を眺めながら、声高に相手と話している。
「……でさあ。話を聞いて、アタシもチョームカツいてさあ」
快活に声を張り上げて吉岡は笑う。
「……ウン。そうそう。入賞したよ。うん。また駅に着いたらメールするよ」
電話を切り、不意に振り向いた奈緒と目があった。一瞬、驚いた表情を浮かべたが、すぐにはにかみながら奈緒に近づいてくる。
「よっ、相沢さん大変だったね」
「今の電話、ご家族ですか」
「いや、彼氏だよ」
屈託のない口調で話す吉岡に、奈緒は耳を疑った。
「彼氏、いるんですか?」
「うん。同じ陸上部のキャプテン。インターハイでコクられたばかりだからさあ。まだ全然実感ないんだあ」
「……えと、七海君とは」
「黒澤?何で」
吉岡はキョトンとした顔つきで奈緒を見た。
「見てて、仲良いから……」
あいつ、可愛いから構いたくなるんだよねと、吉岡は明るく笑った。
「それにあいつさあ、家の事情もあって一緒に部活できなかったじゃん。また一緒走れたらなあ、てのが名残だったんよ。あいつ良い走りしてるしねえ」
にこにこと無邪気に笑い続けている吉岡は、七海の後ろ姿に気がつくと、いきなり駆け出して七海に抱きつき何事か騒いでいる。
傍では、桜が複雑そうな顔をしている立っていた。奈緒は3人の様子をしばらく見まもりながら、昨日の桜の言葉や切ない表情を思い出していた。
――七海君のことが好き、か。
勝手な思い込みのせいで桜自身も空回りしたが、協力する破目になった自分も、桜に随分と振り回されたように思える。
だが、思い過ごしで良かったという安堵感がわくと、その時になって、思い出したように全身を疲労が包んできた。
まるで、重い石を背中に背負っているような感覚があった。
疲れた。
眠い。
もう二度としたくない。 でも、と奈緒は思う。
「……でも、まあ、良い思い出にはなったかな」
奈緒は頼りない浮いたような足取りで、しかし、満ち足りた微笑をたたえながら、七海たちの下に戻っていった。
長い閑話休題になりました




