24(後)
24時間マラソンのコースは、公園の芝生広場内のトラックを半周し、それから公園の外周をまわって一周約1000メートルとなるコースを走って広場まで戻ってくる。
「で、それをひとり3周でリレー形式で交替か。……ひとり3キロてキツくない?」
「今さら言うなよ」
七海の隣で坪井がぼやいた。先ほど周回と順番を決める打合せの時には無言だったのに、いざという段階になって不満を口にする坪井は卑怯だと七海は思っている。
そのうち、競技用ピストルが、パンとスタートを知らせる合図が響くなか、一番手である元気プロレス練習生小松が、“元気プロレス”のロゴ入りTシャツを周囲に示しながら走り始める。主な試合時間や会場、ホームページも記載されていて、元気プロレスの面々が参加したのは宣伝目的もあったらしい。
「あまり短い距離でまわすと、すぐに出番がくるから逆に辛いよ」
同じ元気プロレス所属の田代学は、集団に紛れて遠くなっていく小松を見送りながら、諭すような口調で言った。
「そこそこの体力がある奴なら、30分くらいかな。体力のある七海たちだって、この長丁場だからペースを相当落とす。一周済んだらあと約3時間は休憩となるから、このくらいだと思うけどね」
24時間マラソンはただ走るだけではなく、一応はレースだから順位が決まる。疲労を蓄積させたり、偏らせないようにと田代の提案で、運動経験豊富な桜や吉岡もあっさり同意した。
プロレスラーという肩書きと体形に似合わず、しゃべり方はいつも優しく、語気をあらげるといったこともない。
この大会にしても、テントやランタンといったキャンプ道具、車などの手配をしてくれたのは田代だし、彼がフォローしてくれたおかげで皆もレースに集中できる。
「疲れて駄目そうになったら、みんなでフォローするから。頑張ろうよ」
物静かに励ましてくる田代に、坪井は反論できる言葉も無く、「はい」と頷くしかなかった。
一言で言えば田代は立派な大人なのだが、その大人の部分がプロレスラーとしてのアクの弱さに繋がり、今一つ人気の無いレスラーになっているんだろうなと七海はいつも思う。七海がそう思っているだけでなく、田代の実妹である小倉楓も、常々憤慨しながら語っていることだ。
「七海くん、ちょっと聞きたいんだけど」
奈緒が隣に座ると、顔を耳元に近づけて声を潜めた。
「私たちさ、本気で走ると少なくともオリンピック選手以上の速さになっちゃうけど、全力でいいの?」
守護者の影響に加え、日々の過酷な鍛練のおかげで、七海たちの身体能力は最大限まで引き出されている。派手にやれば目立つに違いなかった。
「田代さんが言ったろ。長丁場だから、ペースを抑えて走らなきゃいけない。それに人間レベルなら、アニメみたいに砂塵巻いてあっという間になんてならん。周りからもせいぜい、あいつはえーなくらいしか認識されない。あんま気にするな」
「……じゃあ、気にしないことにするか」
「なあに2人とも、ヒソヒソと愛を語らっちゃってえ」
頭上から声がして見上げると、背後に立っていた桜が、七海と奈緒の後ろにしゃがみこんだ。
「お二人の邪魔して悪いんだけどさ、吉岡先輩がウォーミングアップするから、七海も付き合ってやって」
「俺が?」
「吉岡先輩のあとでしょ。中学時代を思い出して、ウォーミングアップしてきなさいよ。ほら、いいから行った行った」
桜は追いたてるように七海をどかすと、代わりに桜が奈緒の隣に座った。
「相沢さんはアップをまだしないの?順番は私の前だよね」
言葉のニュアンスと、笑ってはいない目もとから、桜が2人きりになりたがっていると察し、奈緒はアップに行こうかと立ち上がった。
テントを出ると、空から降り注ぐ陽光が、肌をちりちりと刺激し、芝生からムワッと熱い空気が立ち込めてきた。もうテントに戻りたくなったが、隣の桜は暑いなあと言いながらも、大して気にした様子もなく、ストレッチをしながら歩いている。
「吉岡先輩と七海て、どんな関係か知ってる?」
「吉岡先輩どころか、他の人たちもよくわからないんだけど」
そうか、ごめんねといかにも口だけで謝って、桜は話を続けた。
「中学の時、あの2人仲が良くてさ。お姉さんと弟みたいな感じだった。今朝みたいに、吉岡先輩がからかうと七海がムキになって、可愛いんだこれが。高校になって七海は家庭の事情で陸上から離れちゃって、疎遠になってたから心配だったけど、変わってなくて嬉しかったなあ」
「……何が言いたいの?」
桜は足をとめると、奈緒の瞳をじっと見つめてきた。木の葉の隙間からわずかにこぼれる陽の光が桜の瞳に反射して、黒真珠のように綺麗だと思った。
「七海と吉岡先輩をくっつけるの、協力してくれない?」
「え?」
「私が見たとこ、吉岡先輩て七海のこと好きなんだよ」
「本人に確かめてみたの?それ」
まさかと桜は明るく手を振った。
「幾ら何でも本人に聞けないよ。でも、私の勘てば、けっこう当たるんだよ。前から七海の話をすると、他の男子と違う顔つきになるんだよね」
「でも……」
七海が好きな人てあなたなのよと言い掛けて、奈緒は言葉を呑んだ。桜がどうこうではなく、こういう場合、相手の本心を教えるべきなのかどうかわからなかったし、教えてしまった後、自分も含めて関係がどうなってしまうか奈緒には予想がつかなかった。わからないから黙って、桜を凝視しているしかない。
「実は、この企画を七海に提案したのもさ。吉岡先輩と七海の仲を近づけさせたかったからなんだよね。教室通りかかったらあいつが居残ってるでしょ。何かヒントになりそうなもんないかなあ、と七海に話に行ったんよ」
「……」
「そしたら、あいつの雑誌読んでたら24時間マラソンなんてあるでしょ。これだ!て私はひらめいたね。普通に遊びにいくとわざとらしいし、陸上関係なら吉岡先輩と七海、共通点あるじゃん」
「……」
「巻き込んだ他のみんなには悪いけどさ。相沢さんにも迷惑かけちゃったけど、迷惑ついでに協力してくれないかな」
私も七海君が好きなのに。
七海君が好きなのは、あなたなのに。
何故、あなたには何も届かない。
何故、あなたはそんなに明るい笑顔でいられるのだろう。
「……うん。でも、何をすればいいの」
何も答えが見いだせず、桜の言うがままにされている自分に自己嫌悪を感じながら、奈緒は乾いた声で桜に尋ねた。
「できるだけ2人同士を傍にさせて、会話を弾ませて……」
その時、桜と奈緒の耳に、「アダダダダッ!!」と七海の悲鳴にも似た声が届いた。2人は声がした方に目を向けると、遊具が備え付けられている広場で、ストレッチをしている七海と吉岡の姿があった。
七海は広場で開脚した状態で前屈し、セパレート・ユニフォーム姿の吉岡が体を密着させて上から押さえている。
「い、いた、痛いですってば、先輩!」
「このくらいで泣き言言ってんじゃないよ。ほらほら、耐えてみな」
一見、無邪気な光景だが、桜の話を聞いた後では淫靡な光景に映る。過去に奈緒が七海に行ったことと重なっていた。
吉岡は自分の豊かな胸を押しつけ、その手は七海の体をまさぐっているように思えた。
叫びたい衝動を必死に押さえながら、振り絞るように感想を口にした。
「もう仲良くやってるじゃない」
「……そう、だね」
桜の声は震えていた。
横目で見ると、桜は目を見開いたまま、笑って流そうとでもしたのか、普段は美しい表情も醜く強張っている。
――やっぱり、そうか。
桜の七海に対する想い。
そんなものは聞かなくても、奈緒には桜の反応を目の当たりにしただけで充分だった。
――許嫁か。
植松桜には同い年で、家に決められた許嫁がいるという話を思い出していた。
この子も逃れられない鎖に縛られているかと思うと、親近感にも似た奇妙な感情がわいてくるのだった。
※ ※ ※
午後になるまでは、賑やかだった。
元気プロレスの田代と小松は、公園でプロレスをいきなり始めるし、坪井は小学生のようにぶんぶんと腕を振り回していたし、写真部の部長と小倉は、ただひたすら、やかましい。
だが、それも昼飯を食べる辺りまでで、誰もが次第に淡々黙々と走るようになって、残ったメンバーはそれぞれ横になったり、雑談をしている。
「……ウチのプロレスは、こう地味なのよ。ロックアップにサブミッションという、お約束の攻防は否定しないけどさ。みんな同じ始まり方だし、サブミッションを延々と続ける人いるじゃない」
「……まあ、一人思い浮かびましたけど、あの人でも田代さんより人気あるんですよね」
「だって、田代さんは間が悪いよ。さあここから盛り上げるぞ!てとこで、また力比べ始めるとか、身体能力高いのに、ここでコーナーから華麗な飛び技か!と思ったら、ぴょんとヘビーがやる地味な鉄槌攻撃とか、何かずれてんだよね。とにかく、観客をがっかりさせるのは天才的よ」
「あ〜、わかります。観客からも、ため息洩れてますもんね」
練習生の小松と高校生の七海が、元気プロレスの現状や田代学の問題点について話をしている横で、奈緒はぼんやりと正面の砂地のトラックを眺めている。ランナーが次々通りすぎる中、鮮やに躍動感のあるフォームで駆け抜ける。吉岡の姿があった。
時刻は午後5時を過ぎて辺りが茜色に染まり始めると、気だるい秋の雰囲気に流されるように、レース開始時の緊張感も既に解けていった。それは七海たちだけでなく、会場全体に弛緩した空気が流れている。
さすがにアルコール類まで口にする者はいないようだが、和やかな雰囲気はレースをしているようには思えず、奈緒にはどこかのキャンプ場に来ているような錯覚を感じていた。
「夕飯、買ってきましたあ」
マネージャー役の小倉が部長と田代とともに、テントへと戻って来た。3人の両手には牛丼やコンビニで購入したらしいペットボトルやお菓子が詰まったビニール袋を、重そうにさげている。
助かったと悲鳴をあげるように坪井は小倉の傍に行き、さっそくビニールを漁ってペットボトルを取り出した。
「坪井君。そろそろ出番ですよね」
「う、うん……」
坪井と小倉は、ここまでロクに言葉を交わしていなかったが、急に励ましの声をかけられて、坪井の声は上ずっていた。
「まだまだ、終わりまで先は長いけど、頑張りましょうね」
「そ、そそそ、そうだね!」
坪井は蓋をあけると、ペットボトルの水を一気に飲み干し、頬が真っ赤になるほど何度も叩いて「よっしゃあ、オラァ!」と咆哮しながらテントから出ていった。そして吉岡と交替すると、レース開始直後の元気さを取り戻したかのように、何やら絶叫しながら、全速力に近い速度でトラックを走り抜けて行った。
「どうしたの、あの子」
テントに戻って来た吉岡が、怪訝そうに坪井を見送っていたが、七海は苦笑いするだけだった。吉岡はペットボトルを小倉から受け取ると、七海の隣に座って小松との会話に割り込んでいく。「七海、そんなバイトしてんだあ」、「プロレスて台本あんでしょー?」となどと言いながら、自然で嫌味がない。いつの間にか溶け込んで、会話に加わっていた。
そこから視線を動かすと、小倉と雑談している桜が、横目で落ち着きなく七海をチラチラと眺めている。
奈緒が見たところ、吉岡と桜は似たような性格の持ち主で、普段は闊達なのだろうが、今の桜は構ってもらうのを待っている飼い犬のようで、器の小さい人間のように思えた。
――七海君も罪な奴だな。
坪井の次は、奈緒が走る番となる。
今のうちに軽く体をほぐしておこうと、奈緒は上着を脱いでテントから外に出た。惨めな顔をしている桜を、あまり見たくない気分もある。
陽は建物の向こう側に沈んでしまい、茜色の光を地平線沿いに残しているだけで、夜空には星が光っている。公園の街灯や各チームのテントに灯りがともっていた。
どこも同じように薄暗い灯りの中で、夕食に取りかかっている。
夜の冷たい微風が奈緒の肌に触れ、草や土の匂い混じってツンとした臭いが奈緒の鼻を刺激した。クンクンと奈緒は自分の体を嗅いで、思わず顔をしかめた。
「……汗臭い」
半日過ぎて馴れてしまったからか気がつくのが遅れたが、おそらく皆、同じような臭いを発しているはずだ。
そんな汚れた体で、男女が一晩ひとつのテントで過ごす。急速に接近した七海と吉岡の関係だけでなく、チーム全体に奇妙な一体感があるのは、互いの体臭を共有しているからだろうか。
「……健全で、淫ら」
馬鹿なことを考えている自分を可笑しく思いながら、奈緒はトラックに向かって歩いた。
すみません
もうちょっとだけ続きます




