「24」(前)
10月に入ったというのに残暑は厳しく、刺すような太陽の光が、タンクトップにスカートタイプのボトムといった、ランニングウェア姿の相沢奈緒の剥き出し肌を熱く刺激してくる。
眠気と重い疲労が体にのし掛かる。奈緒はうなだれるようにして立ち、腰に手を当てていた。見上げた視線の先には、土で固められた道の上を、よたよたと近づいてくる人影が映る。
疲労困憊といった様子で口はだらしなく喘ぎ、足取りもおぼつかない。
「頑張れ、坪井!」
芝生に設営されたテントから声が響き、横目で見ると体育座りの少年が声援を送っている。その隣にはショートヘアの女の子がいて、水着のようなセパレート・ユニフォーム姿で座っている。少年とはほとんど密着しそうな距離だった。
少し離れて、少年とショートヘアの女の子を寂しそうに眺めている長身でポニーテールの女の子が座っている。起きているのは彼らだけで、他のメンバーはテントの中で、まぐろのように横になって寝込んでいた。
数分前まで奈緒もあんな状態だったのだ。
「何やってんだろ、私……」
やっぱり、やめときゃ良かったかなあ。
後悔に苛まれながら、仰ぐ空は眩しく、ため息しか出てこない。
「奈緒、頼むぞ!」
不意に呼ばれ、視線をテントに戻すと、親指立てて満面の笑みを浮かべている少年の姿があった。
「ほんとに空元気が得意だなあ」
ロクに休息もとれていないはずで、わずか30分の間、泥のように眠っていたのだ。奈緒は呆れて、思わず失笑をもらした。
もう一度、ポニーテールの女の子に視線を向ける。奈緒に気がつかないで、少年をじっと見つめたままだ。
「……黒澤七海君も罪な奴」
鈍感に優柔不断。周りがこんなに想っていても、インドの牛みたいに気がつかないでいる。そんな七海をぶっとばしたくなる時もある。
「奈緒!」と再び黒澤七海の声がした。
「あと一時間だ。頑張ろうぜ!」
つかれているだろうに、こんな時の七海は更に明るく笑ってみせる。
「……ま、そんなとこが好きなんだけどねえ」
相沢奈緒は苦笑いすると、数十メートルまで迫った坪井に目を向けた。自分の頬をピシャリと叩き、目が覚めたように大きな声を張り上げた。
「坪井君!あとちょっとだよ。ファイトファイト!」
※ ※ ※
24時間マラソンやってみないかと、黒澤七海の突然の申し出に、相沢奈緒は口に運びかけたスプーンが止まり、呆気にとられてテーブルの正面に座る七海の顔をまじまじと見た。
対照的に、七海はカレーを次々に口へと運んでいく。
七海は奈緒の家に招かれ、夕飯を伴にしていた。
奈緒が住む東京に使い魔が現れ、七海が応援に駆けつけて撃退したのだが、七海はまだ飯を食べておらず、七海の父も仕事で不在ということで、こちらも両親が不在なことから奈緒が食事に誘ったのだ。
当初はファミレスの予定だったのだが、それじゃ味気ないと七海が言い出し、それならカレーでもつくるかという流れになって、2人は――主に、言い出しっぺの七海が中心となって――カレーをつくって今に至る。
「マラソンて、ひたすら走って疲れるあのマラソン?」
「うん」
「それを24時間走るの?」
「そうだよ」
「なんで?」
「いや、そういうイベントだから」
「……」
「……」
奈緒は絶句して、後の言葉が出てこなかった。
相沢奈緒は守護者だからというわけではなく、人間として運動は得意なのだが、必要もないのに運動などしたくないと考える質である。
襲来する使い魔と戦わなければならないから、厳しい鍛練を日々行っているが、できれば買い物や料理、喫茶店や部屋でだらだら過ごしたいと思っている。
「メンバー8人なんだけど、1人どうしても足りなくてさ。締め切りは明後日だし、ちょうどお前が良いかなあ、と思って」
「よく走る気になるね。人間離れした力があるのに、何を競う気なの?」
七海は中学時代陸上部で、今は趣味としてマラソン大会に出場しているのは知っていたが、守護者の力があるのに休日を利用して、いまだにマラソン大会に出場しているのか、奈緒には理解できないことだった。
「俺は競うつもりはないの。こうさ、弾む息に変わる風景、肺に流れ込む新鮮な空気が良いんだ」
「なら、その辺りで24時間走ってれば」
「いやいやいや、俺だって24時間マラソンなんてやったことないから、どんなのかわかんないよ」
「……」
「でもさ、マラソン大会て走り終わったあとに豚汁とかスイカだとか出るんだけど、この達成感や充足感が良いんだよ。良い思い出になるんだよな」
「……ふうん。観光目的なんだ」
「いや、それもちょっと違うな」
ついていけない。
奈緒は諦めに似たようなため息をついて、テーブルの上に視線を落とした。七海の皿が空になっていた。
守護者として戦うようになって2年近くになる。性格も癖も知り尽くしているはずなのに。
「……カレー、おかわりするんでしょ?」
「ああ。ありがと」
七海が立ち上がろうするより一手先に、奈緒は七海の皿を取り、ご飯とカレーをよそおいに立ち上がった。
以心伝心。
こんな風に七海の心の動きまでわかっているはずなのに、それでも共感できない。理解できないことがあるというのは、人の関係とは不可思議だと、奈緒は柄にもなく考えてしまうのだった。
「それで、何で24時間マラソンなんてやることになったの?」
ご飯にルーをたっぷりかけた皿を置いて、奈緒が尋ねた。ええと、と七海が頭を天井をにらんで頭を掻いた。
「いや、桜がさ……」
植松桜の名を聞いて、奈緒の表情に一瞬、暗い影が奔った。七海は何か目の端に捉えた気がして、奈緒に視線を向けたが、その時にはもう影が消え去っている。
「植松さんが何?」
「先週、教室に居残っていたらあいつ来てさ」
先週末の土曜のことだった。
午前中で授業も終わり、七海とクラスメイトの坪井は教室に残っていた。坪井が昼食用の弁当を持ってきてしまい、それを食べ終わるまで七海は雑談をしながら昨日買ったランニング雑誌を眺めていた。
“秋の紅葉シーズン到来”という見出しで市民大会な特集が組まれ、七海は飛騨か長野の大会2つ3つピックアップして、坪井の話を生返事しながら、当日の予定を頭の中で組み立てていた。そんな折、「やっほお」と言いながら教室に入ってきたのが植松桜だった。
生徒会の仕事で学校に残っていたらしい。
「何、読んでるの」
桜は七海の隣の机に腰掛けると、手にしているランニング雑誌に気がつき、答える前に抜き取ってパラパラとめくり始めた。
「なんだ。またランニング雑誌か」
「なんだは無いだろ。俺が好きで買ってんだから」
「次はどこ走りに行くの?」
「飛騨か長野でちょっと迷ってる」
「七海もさあ、走るの好きなら陸上部に入れば良いのに。吉岡先輩だって、あんたの話をけっこうするよ。さっきそこで会ったけど、“あいつと走りたかったなあ”て」
「部活動は無理て、お前も知ってんだろ」
「うん。だから先輩も知った上で言ってんの。インターハイで引退しちゃったし、愚痴だよ。愚痴」
吉岡先輩とは七海と桜が中学時代にひとつ上の先輩で、吉岡美南という。七海とは陸上部で一緒だった。 最後のインターハイでは、全国まで行ったと耳にはしている。
「最近、吉岡先輩と会った?」
「走っている姿は見掛けるけど、最近どころか入学式以来、話をしてないな」
「……ふうん」
桜は雑誌を読みながら何度も頷くと、あっと不意に声をあげたので、七海はおろか、傍の坪井も弁当箱から顔をあげて桜を見た。
「ねえ七海。これどういうことやんの」
桜は雑誌の記事を指差しながら、七海に見せた。市民大会の紹介記事で、『芦部野公園24時間マラソン』などと記載してある。
「文字通り、24時間走る」
「これみんなで出ようよ。」
「みんなて、誰が?」
「とりあえず七海と私と坪井君」
「ふがっ?」
それまで、我関せずと言わんばかりに弁当に集中していた坪井だったが、急に話を振られ、目を白黒させながら顔をあげた。
「とりあえず3人決まり。吉岡先輩も誘うつもりだから、4人かな」
「吉岡先輩は関係ないだろ。桜の思いつきに付き合わすなんて。あの人、受験だってあるし」
「いいの、いいの。部活なくて寂しいとか言ってから誘えば来るよ」
「……」
何の根拠があってか七海にはわからなかったが、あまりにも桜が自信たっぷりに断言するので、それ以上は抗する言葉もなく、出場参加することが決定となってしまっていた。
「じゃあ、残り4人は七海に任せるね。私、先輩に伝えにいくから」
そう言うと桜は机を降り、手をひらひら振りながら、足早に教室から出ていった。
「……まいったな」
しばらくしてから七海が呟く横で、坪井はただ泣きそうな顔をしながら、七海をじっと見つめてくるのだった。
※ ※ ※
「……というわけで、奈緒に頼みたいんだけど」
だが、奈緒の反応は鈍く、不機嫌そうに黙ったままだった。実際に奈緒は不機嫌だった。面倒だし疲れるのは目に見えている。一晩中走っているだとか、奈緒には理解不能だった。
それに2人きりならともかく、七海の友人たちとは、ほとんど面識がない。奈緒は人見知りというほどではないが、ぽつんとひとり、彼らと混じるのは億劫だった。
「あと誰?」
「ええと……。元気プロレスの田代さんと練習生の小松さんに、写真部の部長さん。小倉さんも来るけどマネージャー役」
「何で私が走って、あの子走らないの」
「足遅いから……」
「体力あるし関係ないじゃない。不公平だよ」
奈緒の剣幕に七海は言葉に詰まって、頭を抱えていた。おそらく小倉にも頼んだが、断られたのだろう。彼氏という写真部の部長が参加するので、妥協してマネージャー役となったのだろうと奈緒は察した。
『いいじゃないか。相沢奈緒、参加しろよ』
テーブルの下から男の声が聞こえたかと思うと、そこから光に包まれたウサギのぬいぐるみが、ふわりと浮かび上がってきた。
『交友関係を広げる、良い機会じゃないか。だらだらお喋り買い物ばかりじゃ退屈だろ』
「あのね、アル。私はそっちのが好きなんだけど……」
“楽しそうなお話ですね”
アルに続いて、テーブルの下から凜とした少女の声が聞こえ、光に包まれた熊のぬいぐるみが、ふらふらと宙を漂うようにして手のひらサイズのコンパクトを運んでくる。開かれた鏡にはドレス姿の金髪の少女が映っていた。
“ここの世界の人たちは、愉快な発想される方がホントに多くいらっしゃいますね。前に文化祭も少し拝見させていただきましたが、羨ましくすら思えます。私たちのモンブラウ公国は森と山に囲まれた田舎ということもありますが、楽しみが少なくて……”
『何をおっしゃいますかジャム王女。質実剛健、清廉潔白は千年に及ぶ我が国の伝統ではありませんか』
“すぐまた説教を始める。七海さんも、アルと付き合って疲れないですか”
「こいつの説教は半分聞き流して、適当にあいづち打っておけば、満足して終わるよ」
『お前は俺の前で、よくそんな堂々と言えるな!』
声をあらげるウサギのぬいぐるみをいなす少年と、その様子を可笑しそうに見守る鏡に映る少女。騒々しく騒ぐ3人にすっかり奈緒は放置されてしまい、憮然として3人の様子を眺めていた。
『……で、どうすんの奈緒は』
奈緒と同じように黙って七海たちのやりとりを見ていた熊のぬいぐるみ――パートナーのシオン――が、そっと奈緒に近づいてきた。
「正直、メンドイ」
『お前らしいっちゃ、らしいな』
シオンは苦笑いしながら、首を傾げてみせた。
『俺としては、七海の友人たちとは顔を合わせた方が良いと思うがな。向こうには小倉楓もいる。そのうち誰かと関わる機会も増えるだろう。それとも何かな……』
「何よ」
急に言い澱むシオンを不審に思い、奈緒が促すとシオンは更に体を寄せ、ささやくように声を落とした。
『植松桜と七海が仲良くしてるとこ、あんま見たくないか』
「……」
シオンの言葉に奈緒は笑おうとしたが、表情が固まった。
それどころか、奈緒の体から血の気が引くような感覚が襲った後、自分でも気がつかなかった、気がつかないふりをして誤魔化していた本心をシオンに言い当てられた気がして、急に顔中が真っ赤になって熱を帯びた。
激しい動揺がそのまま言葉となって、奈緒の口から飛び出していった。
「ば、馬鹿なこと言わないで!」
奈緒の突然の怒鳴り声に、他愛もない口喧嘩をしていた七海たちも呆気にとられて奈緒を注視している。
奈緒は鋭い一瞥をシオンに向けてから、コホンと咳をひとつして居住まいを正すと、動揺をおさえるために大きく深呼吸をした。
「……良いよ。マラソン大会に参加する」
「マジで?めちゃ助かる」
メンバーが揃い安堵してカレーを頬張る七海だったが、奈緒にしてみればマラソン大会など面倒なイベントでしかない。
しかし、シオンの指摘で激しく動揺してしまったことで、自分が見透かされたように思えてしまっていた。自分で気がつかないだけで、心の底では七海と桜の仲を見たくなかったのかもしれない。
しかし、ここで拒否したら、シオンの指摘を肯定し、逃げ出したようにも思えてしまう。
こうなったら出てやろうという、意地にも似た気分になっている。
「きっと、思い出になるぜ」
「……だと良いわね」
言いながら、奈緒はあっという間にカレーを平らげて空になった七海の皿を持った。
どんなに幼馴染と仲が良かろうと、黒澤七海のことは私が一番わかっている。「まだ食べるんでしょ。あと飲み物、牛乳でいい?」
「よくわかるな」
しきりに感心している七海の一言に、奈緒はまあねと素っ気なく返したが、内心ではその言葉が何よりも嬉しく、少し得意になって、鼻歌混じりにルーをついだ。




