「相沢奈緒の休日」
つまんない。
チョーダリー。
相沢奈緒の日常は、この二つの言葉で構成されている。
「シオンさん、時間だよー。早く起きなよー」
早朝六時半。
平日でも今日みたいな休日の日曜でも、奈緒はこの時間に起きる。日がなグダグダ過ごすことは多いけれども、グダグダ過ごすためにも早起き、という気持ちもあるからだ。
起床した奈緒は、机の引き出しをカタカタ揺らすと、若い男の声で『ム……ム……』と声がする。
「ご飯、食べてくるからね」
『ウ、ウムム……』
返事なのか寝言なのかわからないシオン・スレイアの反応にはすっかり慣れっこになっていた。
人形の身体のくせに低血圧だと朝が弱く、この五年間奈緒より早く起きたことがない。朝食を食べて登校するまでには回復しているが、それまで机の中でぐったりとしている。
「やあ、起きたか奈緒」
「あ……、おは、よ……」
台所の戸を開けると、父の陽介がワイシャツ姿で軽い口調で挨拶してきた。台所には母美奈子の後ろ姿が見える。
しかし、他では当たり前の光景も、奈緒には戸惑い他人の家に来ているような気分になっていた。
「どしたの。今朝は二人揃って。珍しいじゃん。もしかしてリストラ?」
「この有能な僕がかい?まさか。昨日三人ほどリストラさせたけどね」
冗談なのか本気なのか、やれやれと肩をすくめながら、軽い口ぶりでウィンクしてみせる。奈緒は乾いた笑いしか返せず、振ったのが自分なだけに聞かなきゃ良かったと奈緒は後悔していた。「ふう……」と奥から美奈子のため息が聞こえてくる。
「今日はスケジュールが空いてね。ゆっくりと出勤できたんだ。ママも同じさ」
「そうなんだ。お母さん」
「……まあね」
ふう、と返事よりも重いため息がはっきり聞こえてきた。
「お母さんが台所にいるから、何かつくっているかと思ったけど、朝食はパンなんだね」
「僕はパン派なんだよ」
「お母さんはもう食べたの?」
「……パパが出掛けたら食べるわよ」
「お父さん、こんな日に出掛けるの?日曜だよ」
そこで奈緒は、陽介がワイシャツ姿である理由がようやく理解できた。隣の椅子にはビジネス鞄が置いてある。
「うん。来月にイベントがあるから、打ち合わせで先方からどうしてもてね。」
陽介の得意気な返答に、美奈子のため息が被せてきた。今度は苛立った様子でキッチン台を強く叩くと、蛇口を閉めて足早に台所から出ていった。
「お母さん、機嫌悪いね」
「弁護士だから神経使うしね。それに今の裁判が不利なのもある」
確か殺人事件を取り扱っていて、どう考えても状況的に被疑者が犯人という事件のはずだ。
ふと奈緒が洗い場を覗くと、他に皿はなく、洗った痕跡があるのは大皿一枚だけで、それがぽつりと洗い場に放置されている。
「……」
美奈子がどれだけ台所にいたのかわからないが、一枚の皿を延々と洗い続けていたことに、奈緒は愕然としていた。起きたばかりなのに重い疲労感が奈緒にのし掛かる。内心、激しい舌打ちをしている。
ツマンネ。チョーダリー。
そんな娘の様子を気にしたそぶりもなく、陽介は掛時計の時刻を見ると、「急がなきゃ」とパンを慌てて頬張った。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
「奈緒、愛してるよ」
陽介は鞄を持つと、そんなことを言って足早に出ていったが、うわべだけで全く奈緒の心に響いてこなかった。陽介は既に別のことを考えているように見える。
玄関の戸が閉まると、タイミングを見計らったかのように母が居間に戻ってきた。
「まだご飯食べてないの」
「お母さんと一緒に食べたいな、と思って。久しぶりにお母さんの料理食べたいな」
奈緒が必死につくった笑顔を、美奈子は無表情のままじっと見つめていた。何か悪いことでもしたような気分で、凄腕弁護士という母を強い視線から逃れるように、奈緒は目を伏せた。
「女が料理とか、時代錯誤もいいとこ。そんな時代じゃないでしょ。パンがあるわよ」
「……うん。お母さんは?」
「太るからいらない」
「……そう」
ツマンネ。チョーダリー。
奈緒はバターをのせたパン二枚をトースターで焼き、スクランブルエッグを手早くつくった。牛乳一杯コップに注いで、それで奈緒の朝食は完成した。
香ばしいバターとパンの焼けた甘い匂い。
普段なら、無味乾燥な奈緒の日常をわずかに彩るもののひとつになるのだが、不機嫌な母を前にすると味もひとつ落ちたような気がした。
「来年は受験でしょ。どこか決めたの?」
「うん……。成倉大とかかな」
黒澤七海が志望している大学名を挙げると、耳を疑ったように怪訝な顔をした。
「だらだら続いている二流でしょ。奈緒は早稲田慶応なんて軽く狙えるんだからそっち行きなさいよ」
「でも、史学部有名でしょ。最近、歴史に興味もって……」
「流行りの歴女てやつ?趣味程度にしときなさいよ。学者なんて食えないよ。」
「だけど……」
「今日日、不景気なんだから、せめて公務員とかさあ。あ、でも警察とか役場みたいな底辺公務員じゃないわよ」
「……そうだね」
「つまんない趣味に引っ張られないで、現実的に考えなさい。無駄なことはしない。人生は一度きりなのよ」
奈緒は母に問い質してみたかった。
皿を洗い続いている時間は無駄ではないのかと。パンをかじる間、奈緒は美奈子の小言をツマンネ。チョーダリーと聞き流していた。
※ ※ ※
「……でさ、ナオッち。聞いて聞いて。チョーウケるんだけど」
「だしょ?チョーウケるっしょ」
「これなんか、チョーカワイーよね」
「私て肉食系じゃない?草食系男子どうにも合わなくてさ」
「あ、そのパフェ、チョーオイシソー」
「だしょ?俺て肉食系だから。チョースゲーしょ?」
とあるファミレスの一角で女四名男四名が集まり、その中に奈緒もいた。
彼らの間のテーブルには、フライドポテトやフライドチキン等といった揚げ物を忠心に、デザートやジュースが所狭しと置かれている。役割分担は良くできており、男が揚げ物ばかりに手を伸ばし、女子はデザートばかり口にしていた。
奈緒が合コンの誘いを受けたのは昨日のこと。
初めは渋ったのだがどうしてもと友達に頼まれ、代々木駅駅前のこのファミレスにやってきたのだった。
合コンに参加したのは初めてではなく、これまで二、三度参加したことはあるのでだいたいの勝手はわかっている。いつもなら彼らの独白めいたやり取りにも参加し、適当な相づちを打つのだが、今日に限ってはそれも億劫で携帯電話をいじって生返事していた。
どこにメールを打つでもサイトを覗いているわけでもなく、これまでに撮影した黒澤七海の画像をぼんやり眺めている。
いささか緊張した面持ちで佇立している、一見少年風の七海が可愛らしいと、奈緒の中で和むものがあった。
「ねえ、相沢さん」
「うん……」
「さっきから何見てんの」「え、え?何?」
「随分熱心だけど、それ弟君?」
正面の席に座る何とかという茶髪の男子が、いきなり奈緒の携帯を覗き込んできていた。
覗くなと怒鳴りたかったが、会話にろくな返事していなかったから仕方がない。
「ナオッちに弟なんていたっけ?」
隣の浅見という女子が聞いてきた。同じクラスなので、迂闊な返答はできない。
「う、うん。事情があって、離れて暮らしてるから」
本心なら彼氏と言いたかったが、女子高生に彼氏が出来た話など、あとで根掘り葉堀り聞かれる格好のネタとなるに決まっている。。
「離れ暮らしてんだあ……」
複雑な事情があると受け取ったらしく、浅見を始めとしたその場の席の者は気まずそうな顔をした。離れて暮らす弟など、一般的にはありえない話だが、事象に対してある程度理屈が通った説明できれば、人はそれで納得はする。
――それにしてもあっさり信じたな。
七海は自分の友人に、奈緒を従兄妹と紹介しているが、「親類」はこんなときに都合がいいと改めて実感した。
「かわいーよね。中学生?」
「ちっちゃいよね。女の子の服似合いそう」
「部活なんかやってんの?」
案の定、と言うべきか七海については、容姿や浅い部分を聞いてくるだけで、何故離れて暮らしてるのかと無神経に尋ねてくる者はいなかった。
「中学一年」だの「本人も可愛い服が好き」だの「吹奏楽部でユーフォやりたいんだって」と、七海本人が聞けば悶絶絶叫するような適当な説明しているうちに、話題は知り合いというバンドや歌手の話へと移行していった。
「……でさ、あの“ジェネラル”のギタリスト三宅さんに教えてもらったわけ」
「へー、すごーい」
「……俺から言えば、すぐ席が安く手に入るよ」
「ふーん、そーなんだー」
孔雀はメスにアプローチする際、派手な尾びれを広げてアピールする。
男たちがベラベラと身振りしながら捲し立てる様は、奈緒に孔雀が張り合っている光景を連想させた。もちろん話は半分も聞いてはおらず、相づちを打つだけだ。
つまんね。チョーダリー。
何気なく他の女子を見ると、それぞれ違いはあるが、話を聞いていないのは全く共通している。
「……ね?俺、頼りになるっしょ。他の子にもけっこう好かれちゃうんだぜ」
「へー、すごーい」
七海君の方がずっと頼りになるのに、と男の話を上の空で聞いている。
黒澤七海の浮いた話を、奈緒は知らない。
奈緒の知りうる限りでは、幼馴染みの植松桜がひそかに想いを寄せているくらいで、どちらかと言えば大人しめなショタ系地味生徒として認識されているらしい。
――いやいや、七海君がもてたら困る。私一人で充分なんだから。
奈緒はあわてて首を振る。正面の男は何事かとのけぞった。
植松と七海の本人同士は知らないが、相思相愛である。奈緒がアプローチしているから、何とかリードしているが、お互いの気持ちに気がついたら一気に置いてきぼりにされてしまう。それだけで戦々恐々としているのに、これ以上、ライバルが増えたら堪らない。
「……じゃあ、時間だし帰ろうかあ」
浅見が時計を見ながら慌てた様子で立ち上がると、奈緒たちも倣っていそいそと立ち上がった。
男たちが茫然する中、向こうの幹事役の男がカラオケだの連絡先だの言ってきたが、それすらも受け流し、愛想笑いをしながらそれぞれ千円ずつ支払い、あとは男に任せてさっさと店から出ていった。
「はずれだったね」
帰り道、浅見がぼそりと呟くと、他の女子も「そうそう」と言い出し、男たちを嘲笑罵倒し始めた。特に“ジェネラル”の下りになると、「知らねーつの!」と腹を抱えて笑い転げていた。
奈緒は話題には参加せず、夕食何を食べようかなとぼんやり考えている。
ファミレスに入ったのは昼を過ぎたばかりだったのに、もう陽が傾き、太陽は茜色に変わっている。
――そか。今は冬なんだっけ。
もう一日が終わる。
そう思った時、体が震えたのは、急に冷たくなった冷気のせいだけではないかもしれない。
中野駅に着いて西側の改札口を、浅見が腕時計を見ながら言った。
「これからカラオケ行かない?ナオッちも行く?」
「ごめん。お母さんいるから。今日は早く帰らないと」
「あ、そうなんだ……」
奈緒の口から「お母さん」という言葉を聞くと、下品に笑っていた女たちは、急に女子高生の顔つきに戻った。四人が四人とも殊勝な微笑を浮かべ、奈緒に小さく手を振りながら別れた。
「今日は何つくろ」
奈緒の足取りは弾んでいた。父陽介は帰ってきていないだろうが、母美奈子と過ごす休日の夜。たまには親子らしく過ごしたい。
駅から約十分の高層マンションの23階に相沢宅はある。
反対運動を押しきって建てられたらしいが、奈緒には関係のない話で見晴らしの良さが自慢だ。
「ただいま!」
奈緒が元気良く玄関を開けると、そこには靴を履きかけている美奈子がいた。いつもの出勤スタイルのスーツ姿で、奈緒には嫌な予感がした。
「お帰り。ママ、これから仕事だから」
「今から?ご飯は?」
「お金、テーブルに置いてあるから。釣りはとっといていいよ」
「そんなに急な仕事?」
「うん。私が担当する被疑者が、警察から不当な取り調べをうけたて騒ぎ出したんだって。もしかしたら、裁判で有利になるかも」
「……」
「裁判で警察や検事の鼻を明かすて、ゲームみたいで面白いわよ。あなたも学者なんからより、こっちやってみなさいよ」
「……考えとく」
「じゃね」
短く言って手をひらひら振り、美奈子は勢いよく飛び出していった。
美奈子がいなくなると室内は急に深閑とし、物音ひとつしない。重い足取りでのそのそと居間へ行くと、テーブルには壱万円札が無造作に置かれてある。
つまんね。チョーダリー。
テーブル上の紙きれを、奈緒はぼんやりと眺めていた。
『これがお前の休日か?』
今までずって黙っていたアルが、初めて喋った。
『会話らしいこともせず、悪口にくわわって、ひとり寂しく飯。これがお前の休日か』
「休日だから良いでしょ。実際、休みなんてこんなもんでしょ」『あまりに無味乾燥すぎ休みが多すぎる。お前なら、もっと良い過ごし方ができるんじゃないのか』
「……」
※ ※ ※
「七海君の味噌汁、やっぱ味濃いなあ。前に私のつくってあげた関東風に合わせなさいよ」
「いきなり来て文句言うな。この地方なら赤だしが基本なの」
黒澤七海が肉野菜炒めが盛られた皿を手に、居間に入ってきた。その量を見てひとり分じゃんと奈緒は口を尖らせた。
「俺、ひとりぶんしかつくってないの」
「これじゃ足りないから、一品つくるわよ。小松菜あったよね」
奈緒はからし和えをつくるつもりで、七海と入れ替わるように台所に立った。勝手知ったる台所の冷蔵庫を漁り、五分もしないで、つくったからし和えを盛った皿を手に居間に戻って、自分の場所に座ると改めていただきますと手を合わせた。
「あーおいし。よくできてるな、からし和え。歯ごたえがたまんない。あ、ご飯おかわりね」
「うっさい。飯食ったら帰れよ。いきなり空間転移してきたかと思えば、“飯食わせろ”とか図々しい」
「つれないなあ。同じ守護者でしょ」
「うっさいな」
「このあと、お風呂入るから貸して。あ、せっかくだから、一緒に入ろうか」
「ばか、何を言って……」
「七海君となら、私はかまわないけどなあ」
顔を真っ赤にしてそっぽむく七海の横顔を、ご飯を頬張りながら奈緒はにこにこ眺めていた。
ヤバイ、チョータノシイ。
奈緒は思う。
休日はやっぱりこうじゃないとな。グダグダする日も良いけど、誰かといるなら、こんな感じにもっと心が弾むものなはずだと思った。
はじめから七海君と遊びにいけば良かったと、奈緒残った白米を口の中へかきこんだ。自宅で食べているのとひと味もふた味もちがうのは気のせいではないように思えた。
満面の笑みを浮かべながら、奈緒は空になったご飯茶碗をつきだした。
「ご飯おかわり!」




