第93話 暗黒操車場と、時速八十キロの跳躍
午前二時四十五分。
エイゼンハイムの町が深い石炭の煤煙と泥のような眠りに沈む中、三つの影は地上の闇から音もなく抜け出し、旧第四鉱山へと続く地下廃道へと滑り込んでいた。
地下数百メートルの岩盤をくり抜いて作られた『エイゼンハイム地下操車場』。
かつては帝国全土へ鉄鉱石を送り出す巨大な採掘拠点であったその場所は、現在、帝都の地下深層軍需工廠へと直結する最重要の兵站動脈へと姿を変えていた。
巨大なドーム状の空洞には、十数本の黒光りする重軌道レールが縦横に敷設され、張り巡らされた高圧魔導送電線から漏れ出る青白いスパークが、湿った岩壁を不気味に照らし出している。
「ノア様、目標の主幹レールを確認。……定刻まであと九分です」
天井付近の排気ダクトの鉄骨梁に身を潜めたリアが、低く鋭い声で報告した。
彼女の指先にはすでに極細の鋼線ワイヤーがセットされ、猫のようにしなやかな体躯はいつでも下方へ滑空できるよう極限まで研ぎ澄まされていた。
「操車場内の警備体制は」
ノアは片膝をつき、薄暗い操車場の全容を冷徹にスキャンしていた。
「外郭の監視塔に自動魔導機銃が四基、プラットフォーム沿いに巡回憲兵が二個小隊。さらに空間全域に、生体熱と魔力波長を捉える【魔素熱源センサー】が格子状に走っています」
隣で懐中時計と小型の魔導受信機を操作していたアッシュが、手元の図面を指差して答えた。
「オットーから得た保安コードを入力し、定期保守信号の偽装を発信しました。センサーの走査周期に六秒間の空白が生じます」
「十分だ。アスター・コアの断熱結界を重ねれば、機械の眼を欺く確率は九十九・八パーセントに達する。……問題は侵入後の列車そのものだ」
ノアの視線は、遠くの漆黒のトンネル坑口へと据えられていた。
帝都直通の特殊軍需貨物列車【第八〇四便】。
それは機関士も車掌も乗せない完全無人の自動魔導装甲列車であり、最高時速八十キロメートルで地下坑道をノンストップで疾走する。
途中の信号所や検問所はすべて遠隔の魔導照合コードによって無停止で通過するため、地上からの臨検を一切受けない完璧な密室である。
だが、それゆえに車内には侵入者を排除するための冷酷な防衛トラップが張り巡らされていた。
「第八〇四便の各車両間には、過重センサーと連動した【区画自動切り離し・焼却機構】が組み込まれている。侵入時の質量変化を感知されれば、わずか五秒で車両ごと切り離され、高熱魔導炎で灰燼に帰す」
「五秒……! 飛び乗った瞬間に質量を偽装し、防壁回路をハッキングしなければ自滅するということですか」
リアの眉がわずかに寄る。
「私の計算に誤差はない。……来るぞ」
ノアの言葉と同時に、地下空洞の奥底から、大地を揺るがす重低音の地鳴りが響き始めた。
ゴオォォォォォォォォ……!
トンネルの暗闇を切り裂いて現れたのは、巨大な黒鉄の塊であった。
先頭車両は傾斜装甲で覆われた鋭利な楔形をしており、巨大な魔導炉から噴き出す青紫色の推進プラズマがレールを激しく加熱している。
全長二百メートル、重装甲の貨車を十両連結した鉄の巨竜が、時速八十キロの猛烈な速度で操車場の主幹レールを駆け抜けていく。
巻き起こる突風と強烈な風圧が、地下空洞の空気を激しく掻き乱した。
「センサーのブラインド・スポット発生まで、三、二、一……今です!」
アッシュの合図と同時に、三つの影が地上三十メートルの鉄骨梁から虚空へと身を投げ出した。
ヒュオッ!
リアの放った二本のワイヤーが、疾走する六両目貨車の屋根の通気口グリッドを正確に捉える。
だが、時速八十キロで運動する物体と、垂直落下する生身の人間との間には、数十万ニュートンに達する破壊的な運動エネルギーの差が存在していた。
通常の物理法則であれば、ワイヤーが張り詰めた瞬間に腕が引きちぎれるか、屋根に激突して骨肉が粉砕されるはずであった。
「相転移――【絶対超潤滑層】、ならびに【衝撃運動量吸熱中和】」
空中でノアが右手を掲げ、心臓のアスター・コアを限界まで励起させた。
キィィィィンッ!
冷気パルスが列車の天板へと直撃した瞬間、装甲表面の分子配列が一瞬で均一化され、摩擦係数が限りなくゼロに近い『極薄の氷滑走膜』が形成された。
同時に、ワイヤーと三人の身体に加わった猛烈な加速度エネルギーを、アスター・コアが【熱力学的逆変換】によって瞬時に内部吸収・中和した。
ズザザザザッ!
三人は激突することなく、氷の滑走路を滑るようにして六両目の屋根の上へと滑らかに着地した。
生体への衝撃負荷(G)は完全に相殺され、骨の軋み一つ生じていない。
「……っ!」
だが、時速八十キロの地下突風は凄まじかった。
屋根の上に立ち上がろうとしたリアの身体が、暴風によって一瞬バランスを崩し、装甲の端へと滑落しかけた。
ガシッ!
その細い手首を、ノアの左手が寸分の狂いもなく掴み取った。
引き寄せられたリアの身体が、ノアの胸元へと強く抱き留められる。
暴風が二人の髪を激しく乱す中、リアは主君の胸郭から響く、アスター・コアの力強く冷徹な脈動を肌で感じていた。
「……ノア様」
「掴まっていろ。ここからが本番だ」
ノアは冷淡に告げ、リアを抱いたまま装甲ハッチの前へと膝をついた。
ピピピピピピッ!
ハッチの縁に埋め込まれた赤色警告ランプが激しく点滅を始めた。
屋根に加わった百五十キログラムの質量変化を感知し、車両切り離し・焼却シークエンスが起動したのだ。
赤色灯のカウントダウンが『04』を示す。
「アッシュ、制御盤を開けろ」
「了解!」
アッシュが風圧に耐えながら素早くハッチの隙間に特殊工具を差し込み、外郭パネルを跳ね上げた。
露出したのは、複雑怪奇に絡み合う魔導光ファイバーと、高圧魔力信管。
カウントダウンは『02』。
あと二秒で、六両目と七両目の連結器が爆砕され、車両全体が高熱火炎で焼き尽くされる。
「遅い」
ノアの指先が、剥き出しの制御基板へと直接触れた。
「熱力学停止――【回路凍結】(システム・フリーズ)」
パキィィィィンッ!
青白い霜が基板の表面を一瞬で覆い尽くし、内部を流れていた魔力信号の伝達速度が絶対零度によって完全停止した。
カウントダウンの数字が『01』の直前でピタリと静止し、警告音がプツリと途絶えた。
安全装置が「通信途絶による一時待機状態」へと誤認され、防衛シークエンスが完全に麻痺したのだ。
カチリ、と重厚なロックが外れ、装甲ハッチがゆっくりと持ち上がった。
「侵入経路を確保した。入れ」
三人は滑り込むようにして、暗闇に包まれた貨車の内部へと身を投じた。
バタンッ、とハッチが閉ざされると同時に、耳を劈くような風圧と騒音が遮断され、冷たい静寂が戻ってきた。
貨車の内部には、整然と並んだ無数の巨大な木箱――帝都地下工廠へと運ばれる最新鋭の魔導触媒と装甲板がびっしりと積載されていた。
「……侵入成功です」
アッシュが床に座り込み、大きく息を吐き出した。
「これより本列車は、地下深層トンネルをノンストップで疾走し、三時間後に帝都第三地下工廠の荷揚げドックへ滑り込みます」
「よくやった」
ノアは立ち上がり、心臓のアスター・コアを鎮静化させながら、暗闇の中で瞳を蒼く光らせた。
地上では厳重な要塞線と近衛師団が国境を睨みつけている最中、復讐の刃を宿した三人は、帝国の最も脆弱な裏口へと、時速八十キロで確実に迫っていた。
古代兵器の心臓部【始原の氷核】の奪還まで、残り三時間。
帝国の暗黒の心臓部を切り裂く、死闘の秒読みが始まった。
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