第92話 鉄煙の宿場町と、偽りの通行証
白銀の国境山嶺を越えた荷馬車は、針葉樹林の鬱蒼とした影を縫うようにして、帝国領北部第十管区へと深く分け入っていた。
山道を抜けた先に広がっていたのは、王国領の牧歌的な田園風景とは似ても似つかぬ、灰褐色に塗り固められた無機質な光景であった。
盆地の中央に位置する工業宿場町『エイゼンハイム』。
無数に林立する巨大な鋳造煙突からは、昼夜を問わず重苦しい黒煙が吐き出され、鉛色の空へと重く滞留している。
空気中には石炭の煤と硫黄、そして熱せられた鋼鉄の焦げつくような臭気が充満し、行き交う人々の衣服や頬を薄汚れた煤色に染めていた。
「ノア様、あれが北部第十管区の関門都市エイゼンハイムです。アイゼンガルド要塞への兵站中継地であり、帝国北部の工業製品がすべて集積する要衝となります」
御者台から幌の隙間へ向けて、アッシュが低く押し殺した声で告げた。
商人の鍔広帽を目深に被り、煤けた防寒マントを羽織ったその姿は、帝国各地を渡り歩く泥臭い行商人そのものに見えた。
「検問所の警戒レベルはどうなっている」
荷台の木箱に腰を下ろしたノアが、感情の欠片もない低い声で問い返す。
「外郭ゲートに憲兵隊が常駐していますが、レオポルト軍の壊滅による影響か、空気は極めて殺気立っています。普段の商人改めではなく、脱走兵や王国軍の間諜を警戒した厳重な臨検体制が敷かれている模様です」
リアが幌の合わせ目をわずかに指先で広げ、外部の様子を双眼鏡で観察しながら補足した。
彼女の身に纏う黒革鎧の上には、目立たないよう厚手の毛皮ポンチョが重ねられていた。
「問題ない。レオポルトの記憶から抽出した正規の通行符牒、ならびに旧カルステン領が保有していた帝国商館の正規登録証を用いる。……アッシュ、検問所への進入角を維持しろ」
「了解です」
馬車は石畳の幹線道路へと合流し、重々しい蹄鉄の音を響かせながら、エイゼンハイムの巨大な外郭鉄門へと列を成して進んでいった。
門の前には、黒塗りの強化甲冑を纏った帝国軍憲兵隊が十数名、抜刀した魔導短機関銃を手に威圧的な視線を周囲へと配っていた。
前方を走っていた数台の地方農民の荷車は、わずかな身元証明の不備を突かれ、容赦なく憲兵たちに蹴り倒されて道端へ排除されている。
「止まれ! これより先は帝国直轄軍政区だ。身分証と積荷目録を提示しろ!」
馬車がゲートの正面に差し掛かると、顎鬚を蓄えた筋骨隆々の憲兵隊長が、威嚇するように長槍の柄で馬車の車輪を叩いた。
「へへっ、ご苦労様です、旦那方! 旧カルステン領の登録商館『銀針商会』の者でございます。帝都第参工廠への特殊硬化鉱石の納入依頼を受けておりましてね」
アッシュが卑屈な揉み手をしながら、懐から分厚い羊皮紙の束と、帝国財務省の刻印が押された真鍮の通行章を差し出した。
憲兵隊長は不審そうに眉をひそめ、手袋を嵌めた指先で通行章を受け取った。
真鍮の表面には、旧カルステン領主がかつて私的に帝国と結んでいた裏取引用の正式な登録番号が、寸分の狂いもなく刻まれている。
だが、隊長の疑念は晴れなかった。
北方国境軍二万五千の消滅という異常事態を受け、憲兵隊には「いかなる些細な違和感も見逃すな」という厳命が下っていたからである。
「……カルステン領だと? あそこは数日前、王国軍の狂犬ノア・アスターに接収されたはずだ。貴様ら、なぜそこから抜け出して平然と帝都へ向かっている?」
憲兵隊長が腰の魔導拳銃に手をかけ、周囲の憲兵四名が即座に銃口を馬車へと向けた。
張り詰める殺気。
荷台の中で、リアの指先が腰のワイヤー射出機へと音もなく滑りかける。
だが、ノアは動かなかった。
心臓のアスター・コアから極微弱な精神干渉パルスをアッシュの背中へと送り、冷静な指示を思考伝達する。
「旦那、まさにその通りでさぁ!」
アッシュは何の動揺も見せず、むしろ大げさに顔をしかめて唾を飛ばした。
「あの化け物貴族が押し寄せてきたおかげで、商会は身ぐるみ剥がされる寸前でしたよ! 幸い、地下倉庫に隠してあった帝都納入用の希少鉱石だけは、夜闇に紛れて馬車に積み込み、命からがら逃げ出してきたんでさぁ。工廠長殿との納期を破ったら、うちの商会は首を括るしかありませんからね」
「積荷を見せろ」
憲兵隊長が冷たく言い放ち、幌の留め金を乱暴に外して荷台の中へと首を突っ込んだ。
荷台の奥には、質素な商人の身なりをしたノアとリアが、怯えたように身を縮めて座っていた。
二人の足元には、厳重に縄で縛られた数個の頑丈な鉄製コンテナが積まれている。
憲兵隊長は懐から小型の【魔力感知針】を取り出し、コンテナの隙間へと差し込んだ。
「中に偽装魔導兵器や、禁忌の魔導書を隠してはいまいな?」
「滅相もございません。中身は純粋なタングステン原石と、冷却触媒用の氷晶石残滓でございます」
ノアが静かに、おどおどとした青年の声を装って答えた。
その瞬間、ノアは体内の一点に意識を集中させていた。
アスター・コアの第4段階特性――【局所分子運動阻害】。
コンテナの内部に封入されていた特殊鉱石から放射される微弱な魔力波動を、完全な絶対零度膜で均一に包み込み、外部の探知針に対して「完全に不活性な自然鉱石」としての数値だけを偽装表示させた。
ジジ……と小さく鳴った感知針の目盛りは、完全に『無害・安全』の青色領域で静止した。
憲兵隊長は舌打ちし、感知針を引き抜いた。
「……ふん。ただの石ころか。だが、これだけの物量を持ち出すには、北部第十管区の憲兵司令部による承認印が必要だ。貴様ら、それを持っていまい?」
露骨な言いがかりであった。
混乱に乗じて袖の下を要求する、前線の腐敗した憲兵特有の強請りである。
アッシュは待ってましたとばかりに卑屈な笑みを深め、胸ポケットから重みのある小さな革袋を取り出した。
憲兵隊長の手のひらへと、誰にも見えぬ角度で素早く滑り込ませる。
チャリン、と鈍く重厚な金属音が鳴った。
袋の隙間から覗いたのは、帝国正規軍の将校にのみ支給される純度の高い金貨が十数枚。
「旦那方の日頃のご苦労に比べれば、微々たるものでございます。どうか、帝都工廠への道を急がせてはいただけませんでしょうか」
憲兵隊長は手袋越しに袋の重みを確かめると、その厳格だった表情をわずかに緩め、喉の奥で満足そうに嗤った。
「……よかろう。帝都への軍需物資輸送を滞らせるわけにもいかんからな。通行を許可する。だが町の中では余計な真似をするなよ。現在、街全域に夜間外出禁止令が出ている」
「へへっ、ありがてぇ! 肝に銘じます!」
ガタゴトと音を立て、馬車は外郭ゲートを通過し、エイゼンハイムの町中へと滑り込んでいった。
背後で重厚な鉄門が閉ざされる音を聞きながら、荷台のリアが安堵の吐息を漏らす。
「お見事でした、アッシュ。……相手の強欲さを突いた完璧な手配です」
「いや、ノア様の魔力偽装が完璧だったからこそだよ。感知針が少しでも赤に振れていたら、金貨を渡す前に蜂の巣にされていた」
アッシュが苦笑しながら額の冷汗を拭う。
「油断するな」
ノアは冷徹な眼差しのまま、幌の小窓から流れていく宿場町の光景を観察していた。
「この町は単なる通過点ではない。レオポルト中将の記憶によれば、エイゼンハイムの地下には、帝都地下工廠へと直通する旧鉱山鉄道の軍用引き込み線が存在する」
「旧鉱山鉄道……! 地上街道を馬車で進むのではなく、地下から帝都へ侵入するおつもりですか?」
リアが目を見張る。
「そうだ。地上幹線は帝都に近づくにつれて憲兵隊の検問が幾重にも重なり、感知網の密度も跳ね上がる。偽装商人としての限界を迎える確率は九十四・二パーセントだ。だが、三十年前に廃止されたはずの地下鉱山線の一部が、現在も軍の極秘物資輸送ルートとして再利用されている」
ノアは懐から、レオポルトの脳細胞から引き抜いた手書きの地下構造図を取り出した。
「まずはこの町の商工会地下に潜伏している、ローゼンバーグ商会の秘密連絡員と接触する。……そこで地下鉄道の運行ダイヤと、守備隊の交代周期を接収する」
黒煙と鉄錆の立ち込める異国の街。
冷徹なる計算に導かれた復讐の刃は、帝国の血管とも言うべき地下流通網へと、音もなく深く突き刺さろうとしていた。
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