第91話 白銀の越境と、偽りの隊商
帝国北部軍二万五千の完全消滅、ならびに総司令官レオポルト中将の消息不明――。
霜降り峡谷で起きた未曾有の壊滅劇は、両国の首脳部へと凄まじい衝撃波となって伝播していった。
王国枢密院においては、辺境の小領主ノア・アスターが単独で敵大軍を粉砕したという凶報にも似た戦勝報告に、廷臣全員が沈黙し、恐慌状態に陥った。
ルナ・ローゼンバーグはその動揺を逃さず、クロムウェル公爵一派の残余利権を一網打尽に回収。
王宮近衛の再編と北方案件の全権を正統なるアスター侯爵家へ集中させる議決を、完璧な手際で成立させていた。
一方の帝国枢密院では、国境検問所の残骸に縛り付けられて発見されたレオポルト中将が、完全な廃人と化していたことで大混乱が生じていた。
魔導障壁も効かぬ未知の破壊現象、そして猛将の精神崩壊。
帝国軍部は「王国軍の戦略級禁忌魔導か、あるいは北部貴族の組織的裏切りか」という猜疑心の泥沼に沈み、国境への兵力再展開計画を最低百二十日間、完全に凍結せざるを得なくなっていた。
◇
山嶺に吹き付ける風が、冬の名残を惜しむように乾いた冷気を運んでいた。
アスター侯爵公館の城壁の上。
旅装を整えたノア・アスターの前で、ヴェルナーと財務官ハインツが膝をついていた。
「金庫の軍資金五万七千枚、ならびに倉庫の備蓄食糧の運用権をすべて貴様らに委任する。……霜降り峡谷の崩落防止工事と防壁の自動維持機構の点検を怠るな」
「はっ! このヴェルナー、命に代えましてもアスターの防壁を一歩たりとも破らせはいたしません!」
老将の決死の誓いに、ノアは静かに頷いた。
「敵が体勢を立て直す猶予は最低百二十日。その間に、我々は帝国本土へ深く浸透する。……死ぬなよ、ヴェルナー」
「ノア様も、どうかご武運を……!」
公館の裏門から音もなく滑り出したのは、幌を被せた一台の堅牢な荷馬車。
御者台に座るのは、一般商人の外套を羽織ったアッシュ。
そして荷台の影には、軽装の黒革鎧を身に纏い、短剣とワイヤーを点検するリアと、ノアの姿があった。
「ノア様、国境北西十二キロの山岳地帯へ接近中。……エルンストおよびレオポルトの記憶通り、哨戒小隊の巡回ラインは完全に空白化しています」
アッシュが小声で告げる。
レオポルトが二万五千の軍勢を峡谷へ集約させた際、周辺の監視網をすべて解体して本隊へ編入したため、この険しい山岳路には帝国軍の監視の目が一切存在しなかった。
「関所を避けてこの獣道から越境する。だが、帝国の広域魔導探知網の外縁を通過する際、魔力探知針がわずかに反応する可能性がある」
ノアは右手を掲げ、心臓のアスター・コアを脈動させた。
ドクン……!
前回の戦いで限界突破を果たし、『第4段階』へと同期したコアが、かつてない高密度の蒼白い燐光を放つ。
ノアの全身から放出されたのは、冷気そのものではなかった。
空間内の熱振動と魔素波長を極限まで均一化し、周囲の極寒環境と完全に同調させる【絶対断熱ステルス結界】。
シュゥゥゥ……。
馬車の走行音、輓馬の蹄の反響、そして三人の生体熱と魔力放射が、完全に空気中へ溶け込んで消失した。
見張り塔の遠隔探知魔導器の針は、ピクリとも動かない。
自然の風雪と同化した馬車は、誰一人気づく者のないまま、帝国の絶対防衛線――その国境の山嶺を静かに越えていった。
「越境完了。……これより先は、帝国領北部第十管区となります」
リアが地図を広げ、ノアの横顔を見上げた。
その瞳には、主の背中をどこまでも追い続ける揺るぎない覚悟が宿っていた。
「アッシュ。偽装身分証を展開しろ。我々はこれより、旧カルステン領から帝都工廠へ特殊金属を納入する『内国登録商人隊』となる」
「了解です。積荷の偽装帳簿、帝国商館の裏書き印、すべて揃っております」
荷馬車は白銀の山道を抜け、帝国領内の針葉樹林帯へと吸い込まれていく。
目指すは、古代遺産【始原の氷核】が封印された、帝都の暗黒の心臓部。
奪われたすべてを清算するための、冷徹なる潜入劇が幕を開けた。
お読みいただきありがとうございます!
ノアの冷徹な知略や復讐のロジック、物語の展開を楽しんでいただけましたら、
画面下部にある【★評価】や【ブックマーク追加】、いいねをポチッと押して応援していただけると非常に励みになります!
(読者の皆様の評価や応援が、執筆と毎日の更新モチベーションに直結しております…!)
「面白かった!」「スカッとした」「ここが好き」といった一言感想やレビューもお待ちしております。
次回もどうぞよろしくお願いいたします!




