第89話 白濁の奔流と、雪解けの物理学
山肌を覆っていた厚い氷雪が春の暖気とともに緩み、谷底へと無数の白銀の細流となって流れ落ちていた。
国境の険しい隘路――霜降り峡谷の上流三キロメートル。
標高千五百メートルの鞍部において、ノアは心臓のアスター・コアから青白い極冷気を均一に放ち、巨大な氷の天然ダムを固定していた。
雪解け水によって膨れ上がった貯水量は、すでに数百万トン。
その莫大な水圧を、ノアの絶対零度魔導で分子結合を均一化された極薄の氷壁が、まるで張り詰めた鋼の弓弦のように限界まで耐え忍んでいる。
「ノア様、敵先鋒が国境検問所の残骸を突破……! 全軍が霜降り峡谷の隘路へ進入を開始しました」
断崖の頂で双眼鏡を覗くリアが、低く鋭い声で報告を上げた。
峡谷の底を黒々と埋め尽くすように進軍してくるのは、帝国北部軍の新司令官【鋼鉄の獅子】レオポルト中将率いる二万五千の大軍。
先頭を進むのは、重厚な甲冑を纏った五千の突撃騎兵隊。
それに続く二万の重装歩兵と魔導士大隊が、踏み固められた残雪を踏み鳴らし、地鳴りのような進軍音を峡谷一帯に響かせている。
「全軍突撃! アスター領の寒村など一揉みで蹂躙し、公館を我が軍の兵站基地とせよ!」
金色の獅子の兜を被った巨漢の将――レオポルト中将が、白銀の戦斧を天へと掲げて怒号を轟かせた。
アイゼンガルド要塞の工廠を破壊された屈辱を晴らすべく、猛将は最初から全軍による正面力押しを選択していた。
峡谷の幅は狭く、兵の密集度は極限まで高まっている。
その様子を崖の上から見下ろすノアの瞳には、一切の激情も、恐怖も存在しなかった。
ただ、高速で回転する数式と物理パラメータの羅列だけが、網膜の奥に冷たく映し出されていた。
「敵軍の総質量、およそ百八十万キログラム。……前進速度、時速六キロメートル。全軍の八割が峡谷内の最深部へ到達するまでの猶予、あと四分二十秒」
「ノア様、アスター公館の防壁部隊、および旧カルステン私兵の全砲門、迎撃準備完了しております」
アッシュが背後から懐中時計を手に報告する。
「合図を待て。……水力エネルギーの破壊係数は、流速の三乗に比例する。峡谷の傾斜角十二度、高低差三百メートル。重力加速度と質量が交差する臨界点を突く」
ノアは懐中時計の秒針を静かに見つめた。
チ、チ、チ……。
秒針が正午の目盛りに重なった瞬間、ノアは冷酷に右手を振り下ろした。
「相転移――解凍」
パキィィィィンッ!
数百万トンの雪解け水をせき止めていた極薄の氷壁が、分子結合を一瞬で解放され、跡形もなく消滅した。
次の瞬間、起きたのは爆発を遥かに凌駕する天変地異であった。
ゴォォォォォォォォッ!!
標高差三百メートルを一気に滑落する数百万トンの白濁した鉄砲水。
巨岩と砕氷を呑み込み、泥流と化した巨大な水の壁が、津波となって霜降り峡谷の隘路へと雪崩れ込んだ。
「な、なんだあの音は……!? 山が崩れたのか――!?」
先頭を走っていたレオポルト中将が、突如として響き渡った耳を劈く地鳴りに馬首を引き絞った。
だが、彼が見上げた先には、すでに空を覆い尽くすほどの高さ三十メートルに達する濁流の巨浪が迫っていた。
「ば、馬鹿な……水だと!? この厳冬の山岳で――魔導士隊、集団障壁を展開しろぉぉぉッ!」
猛将の絶叫を受け、中央の魔導士百名が一斉に杖を掲げ、紫紺の複合防御障壁を頭上へ展開した。
だが――ドォォォォォンッ!!
数百立方メートル、数百万トンの質量が重力加速度を伴って激突した瞬間、その物理運動エネルギーの総量は魔導士たちの脳の許容限界を瞬時に突破した。
パリン、と硝子が砕けるような音とともに障壁が瞬時に粉砕され、魔導士たちの鼻孔と目から鮮血が噴き出し、全員が即座に過負荷で気絶・圧殺された。
逃げ場のない狭隘な峡谷の底で、二万五千の密集隊形は、ただの押し流される木っ端でしかなかった。
鉄砲水の衝撃波が、五千の騎兵と馬匹を一瞬で呑み込み、鉄の重装甲を着た歩兵たちを濁流の底へと叩き落としていく。
頑丈な重装甲は水圧と流動する巨岩にひしゃげ、自らを沈める重りとなって兵士たちを水底へ縛り付けた。
自然の猛威を数学的に制御した、冷徹なる絶対の一撃。
帝国の誇る二万五千の大軍は、刃を一度も交えることなく、白銀の峡谷の底へと瞬時に消滅していった。
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