第88話 白銀の要塞都市と、雪解けの予兆
近衛副団長ガイウスの失脚、ならびにクロムウェル公爵一派の完全な処刑と追放。
その報せが王都のルナから北方のアスター公館へ届いた頃、山嶺を包む厳冬の気配の中に、微かな雪解けの匂いが混じり始めていた。
春の訪れまで、残り二十日。
公館の天守閣から見下ろすアスター領の景色は、わずか数ヶ月前とは完全に別物へと変貌を遂げていた。
公館の外周を取り囲むのは、ノアの絶対零度魔導によって圧縮焼結された、高さ八メートルの巨大な氷岩複合防壁。
その上には、接収された帝国製魔導弓と【局所冷凍弩】が数十基配備され、隙間なく強固な防衛線を構築している。
さらに、カルステン領へと続く軍用街道は完全に除雪・舗装され、一日で数十頭の輓馬と荷馬車が行き交う大動脈となっていた。
旧カルステンの私兵百四十八名と正規兵二十七名は、完全に統合された規律ある防空・警備部隊として機能し、領民千四百名の誰もが飢えることなく、正当な日当と食糧を得て活気に満ちている。
「……ノア様、領内の最終兵站台帳でございます」
事務官ハインツが、整然と数字の並んだ台帳を恭しく差し出した。
「手元金庫の軍資金は、ルナ様への送金分を差し引いても金貨五万七千枚。備蓄小麦は計七千俵、乾燥肉三万食。……これならば、領民全員が向こう一年間、一切の耕作を行わずとも完全に生活を維持できます」
「よくやった、ハインツ。……数字に狂いはない」
ノアは冷淡に頷き、台帳を閉じた。
そこへ、防壁の巡回を終えたヴェルナーが重厚な足音を響かせて登ってきた。
「ノア様! 国境哨戒班より緊急報告が入りました! アイゼンガルド要塞の動きが急激に慌ただしくなっております!」
「……ヴァルター中将の更迭に伴う、新司令官の着任だな」
ノアの瞳が、蒼氷の静寂を湛えて北の山脈を捉えた。
「はっ! 帝都より直々に派遣されたのは、帝国屈指の猛将として知られる【鋼鉄の獅子】レオポルト中将。兵力はおよそ二万五千。要塞工廠の復旧を待たず、雪解けと同時に国境を越えてアスター領へ一挙雪崩れ込む構えです!」
「二万五千か」
「我が軍の防衛戦力は、旧私兵と正規兵を合わせても二百名足らず……百倍以上の戦力差です」
ヴェルナーの声に張り詰めた緊張が走る。
「さらに帝国軍には、複数の魔導士大隊が随行しております。敵が集団魔導障壁を展開しながら進軍してきた場合、こちらの冷凍弩による局所狙撃だけでは防ぎきれません」
「案ずるな、ヴェルナー。集団魔導障壁など、熱と魔素を中和・拡散させるだけの薄紙に過ぎん」
ノアは長机の上の地図を指先で叩いた。
「霜降り峡谷の上流三キロ、標高千五百メートルの鞍部に溜まる春の雪解け水は、推計で数百立方メートル――質量にして数百万トンに達する。すでに私のアスター・コアから放つ極冷気により、薄い氷壁の天然ダムとして臨界保持してある」
「氷のダム……!?」
「数百万トンの質量が、標高差三百メートル以上の重力加速度を伴って叩きつける連続運動エネルギーの総量は、人間の脳組織と魔導結晶が維持できる防御障壁の許容限界を三桁以上凌駕している。障壁を展開した瞬間に、術士たちの神経系が過負荷で焼き切れて即座に圧殺されるだけだ」
ノアの淡々とした物理計算に、ヴェルナーは戦慄を覚えた。
「敵将レオポルトは、功を焦って大軍による力押しを好む男だ。【霧氷の巨神】を失った屈辱を晴らすため、隘路である霜降り峡谷へ二万五千を密集進軍させてくる。……敵の教条的な用兵そのものが、最大の自滅因子となる」
ノアが耐寒魔導外套を翻し、天守閣の階段へと歩みを進める。
背後で控えていたリアがそっと歩み寄り、ノアの外套の留め金を整えながら、澄んだ瞳で見上げた。
「ノア様、出撃の準備はすべて整っております」
「行くぞ。……二万五千の質量を、そのまま葬り去る」
雪解けの季節。
アスター領の運命を決定づける最終防衛戦の幕が、静かに上がろうとしていた。
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