第86話 五万枚の軍資金と、王都の蜘蛛の糸
アイゼンガルド要塞の地下ドックが爆煙と断線した魔力スパークに包まれる中、三つの影は漆黒の排熱ダクトを逆流していた。
要塞全域に鳴り響く非常警報のけたたましいサイレンと、暗闇の中で錯綜する工兵たちの悲鳴。
だが、その喧騒は分厚い鋳鉄パイプと岩盤によって遮断され、三人の歩調を乱す要因にはなり得なかった。
「ノア様、ダクト終端へ到達。……閉塞処理を開始します」
リアの報告を受け、ノアは立ち止まって右手を背後の金属管へと翳した。
心臓のアスター・コアが静かに脈動し、絶対零度パルスがダクトの内壁へと流し込まれる。
メキメキ、ドォォォンッ!
高熱蒸気が急激に冷却されたことで激しい体積収縮と水蒸気爆発が誘発され、直径二メートルの排熱口が数百トンの岩塊とともに内側から完全に圧壊した。
さらにノアは、崖下へ投下した数個の偽装魔導具を遠隔起爆させ、熱源と足跡が東部山岳地帯へ向かったかのように偽装する欺瞞工作を完了させていた。
「これで追撃部隊は、東の国境検問所方向へ誤導される。我々の足取りを捕捉する確率は〇・〇二パーセント以下だ」
「さすがです。敵の初動捜索隊は完全に空振りに終わるでしょう」
アッシュが背負った空間圧縮魔導袋の位置を直しながら、冷ややかに笑みを浮かべる。
リアのワイヤーが千メートルの断崖を捉え、三人は滑空するように谷底の白銀の雪原へと降り立った。
夜明け前の国境地帯を、三人は風のように駆け抜け、公館へと帰還を果たした。
◇
アスター侯爵公館へ帰還したノアを迎えたのは、臨時軍政官ヴェルナーの威儀を正した敬礼であった。
「ノア様、ご無事の帰還を心よりお慶び申し上げます! 公館およびカルステン領の境界線、一切の異状はございません!」
「ご苦労だった、ヴェルナー。……アッシュ、袋の中身を金庫室へ移送しろ」
アッシュが卓上に降ろした革製の魔導袋から、封印符が解除される。
次の瞬間、眩いばかりの黄金の奔流が机の上から床へと雪崩れ落ち、重厚な金属音が執務室に響き渡った。
「こ、これは……!? 一体どれほどの額が……」
ヴェルナーが息を呑み、目を見張る。
「金貨五万枚だ。アイゼンガルド要塞の侵攻用備蓄金を全額接収した。これで、領内金庫の手元資金は合計七万二千枚となる」
七万二千枚。
小規模な州の年間国家予算に匹敵する天文学的な資金量である。
ヴェルナーは武者震いに全身を震わせ、平伏した。
「これほどの軍資金があれば、北方の全領民を三年養い、最新鋭の迎撃要塞を築くことが可能です……!」
「蓄えるだけでは意味がない。資本は回転させてこそ最大の威力を発揮する」
ノアは冷淡に告げ、執務机へ向かって羊皮紙に素早くペンを走らせた。
「アッシュ。接収した金貨五万枚のうち、一万五千枚を即座に王都のルナへ秘密裏に送金しろ」
「一万五千枚の現物輸送ですね。カルステン街道を経由しますと、馬車列で最低十日を要しますが……」
「馬車など使わん。空間圧縮魔導袋に全額を詰め、夜鴉第一班の伝令二名に単騎で強行軍を行わせる。さらに、ローゼンバーグ商会が敷設している特約信用為替の裏書きを併用し、王都側で即日資金化できる体制を整える。三日以内にルナの手元へ届かせろ」
「御意! 直ちに手配いたします」
「それだけではない。この暗号書簡を同封する」
ノアが差し出した羊皮紙には、ヴァルター中将の脳細胞から直接抽出した決定的な機密が整然と記されていた。
「王室近衛騎士団の副団長、ガイウス卿。……前軍務卿やクロムウェル公爵に連なる、王都の最後の腐敗の根だ。奴がアイゼンガルド要塞と交わしていた密書の受領記録、および帝国商館を通じた資金洗浄の全ルートをルナへ渡す」
「近衛副団長……! 王宮の防衛を一手に握る男まで、帝国の走狗に成り下がっていたとは」
ヴェルナーが憤怒に拳を握りしめる。
「クロムウェル公爵が査問会で追い詰められ、後ろ盾であるアイゼンガルド要塞からの連絡が途絶した今、ガイウスは自らの保身のために軍事クーデターを画策する確率が八十七パーセントに達している。……ルナに先手を打たせ、王宮内部からこの反逆者を完全に炙り出させる」
書簡の末尾に、ノアはルナだけが解読できる固有の符丁を走らせた。
『盤面の残滓を清掃せよ。春の訪れとともに、北方の防壁は完成する』
北方での防衛戦を制したノアの布石は、再び遠く離れた王都の心臓部へと伸びていた。
帝国と内通する者たちを一人残らず根絶やしにするまで、計算された復讐の連鎖が止まることはない。
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