第85話 巨神の暴走と、要塞司令官の記憶
地下第零ドックを見下ろす上層司令バルコニー。
アイゼンガルド要塞司令官ヴァルター中将は、手すりに両手を叩きつけ、苦々しい表情でドック内の作業を見下ろしていた。
「技師長! 【霧氷の巨神】の出力調整はまだ終わらんのか! 春の侵攻日程まで、もう一ヶ月余りしかないのだぞ!」
『も、申し訳ございません、閣下!』
手元の拡声魔導器から、工廠の喧騒に混じって技師長の上ずった悲鳴のような声が返る。
『アスター領からの特殊氷晶石の供給が完全に途絶えたため、要塞備蓄の低純度結晶で代替しておりますが、炉心の熱循環が安定せず、過熱と凍結の振れ幅が臨界許容値の限界に達しております! これ以上の出力テストは危険です!』
「役立たずどもが! エルンスト少佐の重装猟兵隊が国境で消息を絶った件といい、アスターの寒村で一体何が起きているのだ……!」
ヴァルターが苛立ちを露わに舌打ちした、まさにその瞬間であった。
司令室の重厚な防音扉に施されていた三重の魔導ロックが、アッシュの細い銀針による干渉で音もなく無効化された。
工廠の激しい金属音と炉心の咆哮に意識を奪われていた二名の近衛親衛兵は、背後の気配を察知することすら叶わない。
滑り込んだリアの極細ワイヤーとアッシュの短剣が、二人の頸動脈を同時に寸分の狂いもなく断ち切った。
コトリ、と微かな乾いた音が絨毯に吸い込まれる。
崩れ落ちる巨躯を二人が静かに抱き止め、影の中へと引きずり込んでいた。
「何者だ――ッ!?」
歴戦の勘で殺気を察知したヴァルターが電光石火の勢いで振り返り、腰の軍刀へ手を伸ばそうとした。
だが、その抜刀動作が完了することはなかった。
カチィィィン……!
司令室内の空気中の熱量が、物理の法則を無視して一瞬で真空のように消失した。
ヴァルターの右腕と軍刀の柄が、瞬時にマイナス百数十度の極低温によって凍結され、刀身を抜くことすら叶わずに白濁した霜に覆われる。
「がっ……!? て、貴様……!」
激痛と悪寒に歯の根を鳴らす老将の眼前に、青銀の耐寒魔導外套を静かに揺らしながら、漆黒の髪の少年が歩み出た。
ノア・アスター。
「アイゼンガルド要塞司令官、ヴァルター中将」
ノアの瞳は、感情の欠片も映さぬ完全な蒼氷の輝きを放っていた。
「貴様の知る通り、アスター領からの特殊氷晶石の補給は二度と行われない。……あの鉱石はすべて、私の体内に統合された」
「な……貴様が、アスター家の……!? 馬鹿な、この要塞の深部へどうやって侵入した……!」
「排熱ダクトの熱力学的脆弱性、およびエルンスト少佐の脳細胞から得た巡回周期の盲点だ。侵入確率は九十九・八パーセントだった」
ノアは机の上の操作盤へ視線を向けた。
「そして、あの攻城兵器の魔導炉の崩壊確率もまた、百パーセントだ」
ノアが左手をドックの中央――【霧氷の巨神】の炉心配管へと向けた。
心臓のアスター・コアが共鳴し、極微小な絶対零度パルスがガラス窓を透過して炉心の冷却バルブへと照射される。
パキィンッ!
不純物の多い代替結晶によって無理やり稼働していた魔導炉に、外部から極低温の衝撃が加えられた。
熱循環の均衡が瞬時に崩壊する。
『な、なんだ!? 炉心温度が急上昇――いや、急降下!? 魔力圧が制御不能です! 退避――全員退避しろぉぉぉッ!』
工廠内にけたたましい警報ブザーが鳴り響き、技師や兵士たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
次の瞬間、巨神の胴体部から眩いばかりの蒼白い魔力奔流が爆発的に噴き出した。
ドォォォォォンッ!!
巨大な脚部が凍結破砕され、数十メートルに及ぶ長大な砲身が轟音とともにドックの床へ崩落した。
爆発の余波で要塞全体の照明が一斉に明滅し、地底を揺るがす地鳴りが響き渡る。
帝国軍が春の侵攻の切り札として心血を注いできた決戦兵器は、一撃も放つことなく、鉄屑の山へと変わり果てた。
「わ、我が軍の巨神が……なんということを……!」
ヴァルターが絶望に顔を歪めて膝をつく。
その額へ、ノアの冷たい右手が無慈悲に伸ばされた。
「嘆く必要はない。貴様の頭脳も、直ちに私の演算の一部となる」
「や、やめろ……帝国の軍機を……貴様のような若造に――」
ノアの指先が老将の額に触れた瞬間、アスター・コアが激しく脈動した。
「【記憶捕食】(メモリ・イーター)――解凍展開」
ズゥゥゥゥンッ!
要塞最高司令官の全記憶が、ノアの意識の中へと雪崩れ込んでくる。
流れ込む膨大な情報量と高負荷に、ノアの瞳孔がわずかに揺らぎ、額に冷汗が滲む。
その刹那、背後に控えていたリアがそっとノアの肩を支え、自らの体温を遮断したまま主の反動を支え止めた。
「ノア様、退路の警戒は完了しております」
アッシュの鋭い囁きとともに、ノアの頭脳内で解析が完了する。
――春の侵攻における帝国軍三万の進軍序列と、物資集積所の詳細座標。
――王都中枢において前軍務卿やクロムウェル公爵以外に、帝国と繋がっていた最後の黒幕――『近衛副団長ガイウス』の名。
――そして、アイゼンガルド要塞の機密金庫に眠る、侵攻作戦用の軍資金【金貨五万枚】の解錠符号。
「……完全解析」
ノアが手を離すと、ヴァルターは白目を剥き、知性を失った抜け殻となって床へ崩れ落ちた。
「アッシュ、奥の機密金庫を開錠しろ。金貨五万枚は、ルナから支給された空間圧縮魔導袋へ全額収納する」
「了解です! ……流石はローゼンバーグ商会の特注品、五万枚の質量をわずか数キロに抑え込めますね」
鮮やかな手際で金貨の山を魔導袋へと呑み込ませ、アッシュが素早く背負い直す。
要塞全体を包む停電と黒煙、鳴り響くサイレン。
「排熱ダクトから離脱する。要塞の防衛機能は向こう一ヶ月、完全に麻痺した」
「「御意!!」」
工廠が炎上し崩壊する地鳴りを背に、冷徹なる復讐者たちは、手に入れた莫大な富と機密を手に闇へと消え去った。




